(23)『飼育』

大江健三郎  『飼育』   2007年3月

小田島 本有    

 戦争末期、飛行機が墜落し、村人の捕虜となった黒人兵。県からの指令がないまま、村では厄介者の面倒を見なければならなくなる。このとき、黒人兵を「飼う」と言い放った父親の言葉に「僕」は興奮を抑えきれない。
 この村じたいが町の人々からは蔑まれていたことは、作品の随所から伺える。村人たちは「汚い動物のように」嫌がられていた。蔑視を痛みとして感じる感性は「僕」の心にも確実に存在していた。
 黒人兵は「獲物」として村人たちに飼育される。最初は異物であった黒人兵だが、彼に興味を示す子供たちの接近が功を奏し、彼らの間には一種のユートピア空間が形成されていく。黒人兵と子供たちが一緒に水浴びをする場面はまさに至福の頂点であった。
 しかし、この状態は黒人兵を県に引き渡すよう村に通達があってから急変する。異変を察知した黒人兵は「僕」を人質にして抵抗を始めた。捕虜体験をしたという点で黒人兵と「僕」は通い合うものがある。
 個人と個人との関係は、その背景や状況によって刻々と変化する。「僕」と黒人兵との場合も例外ではない。家畜であったはずの相手が一気に恐怖の対象へと変貌する。
 「僕」にとっての衝撃的な体験はこればかりではない。もともと「僕」にとって、父親はまさに尊敬の対象であった。鼬(いたち)の皮を剥ぐ作業は、町の人々が忌み嫌うものであったが、「僕」は父親のその技術に誇りさえ抱いていた。ところが、その父親は彼らに近づき、鉈(なた)を振り下ろす。膠着状態を一挙に打開しようとしたのは分かる。しかし、この時の父親の表情に「僕」が恐怖を覚えたであろうことは容易に想像がつく。この一撃で黒人兵は頭蓋を打ち砕かれて死んだ。と同時に「僕」の左手も粉砕されたのだ。
 これ以来、「僕」には大人たちが「怪物」にしか映らない。そして「僕はもう子供ではない」という啓示にも打たれる。子供たちの遊びに加わろうとしない「僕」は、もうかつての無邪気な「僕」ではない。その点で、『飼育』は「僕」の成長物語と言えるだろう。ただし、それは苦い痛みを伴うものであった。かつて黒人兵を「あいつは獣同然だ」と語る父親の言葉に「僕」は興奮した。しかし、現在の「僕」は明らかにこの父親とは違う認識を抱いているはずである。  このあと、作品には描かれていないが日本はまもなく敗戦を迎える。それは日本がアメリカに「飼育」される近未来を暗示してもいるのだ。