(28)『廻廊にて』

辻 邦生  『廻廊にて』   2007年8月

小田島 本有    

   「マーシャが死んでも、俺が予想したような空無感は生れなかった。マーシャの死だけはちがっていたのだ。いや逆にマーシャの死は、俺に、空虚ではなく充実を教える稀有(けう)の例となったのだ」マノリス・パパクリサントスは「私」にこう語る。
 亡命ロシア人であり、異例の才能を持ちながらも寡作であった女流画家マーシャ。結婚にも破れ、傍から見ると決して幸福であったとは思われない生涯である。しかし、果たしてそうだったのか。かつてマノリスの言葉の聴き手であった「私」は、ある衝動に突き動かされ我々に語り始める。
 危険に晒されているときこそ、生きているという実感に貫かれると語っていた少女アンドレとの出会いは、マーシャを一時虜にした。それは彼女が芸術衝動に貫かれているときの感覚と相通じるものがあったからである。しかし、更なる危険を追い求めるアンドレの生き方は、やがて彼女の墜落死を招いてしまう。
 アンドレが凡庸な市民生活を嫌悪したのに対し、マーシャはむしろそれらに安らぎを覚えていた。マーシャが長らく制作不能に陥っていたのは、本来彼女が持っていたそれらを忌避し、芸術至上主義的な方向へ自らを強いて向かわせようとしていたからである。それに彼女自身気づいたのが、作品の末尾、すなわちタピスリを見て陶酔感を覚えたときであった。このとき彼女は永遠の時に満たされ、宿命の成熟という想念に思い至る。それまでの彼女の精神的彷徨はこのときを迎えるための準備期間でもあったのだ。
 この少し前、彼女は社会運動家ローザと出会っている。いかに悲惨な状況にあっても「人間が人間であろうとする意志」を持つことの大切さをローザは訴えていた。ローザはやがて銃殺刑に処せられるが、ローザの精神は確実にマーシャに伝わったのである。マーシャは病床の中にあったとき、「人間の一人一人も、ひょっとしたら<人間>という種族の花々を、そこに咲かしているのかも知れない。次から次へと散ってゆくけれど、同じ花が咲きつづけているのかも知れないって、考えられるでしょ?」とマノリスに語っていた。ここでマーシャはローザから貰い受けた精神を、今度は自らの言葉で語っているのだ。そしてこの言葉はマノリスを勇気づける。
 ローザからマーシャ、マノリス、「私」、そして我々読者へと、一つの精神が継承されようとしている。人の生命には限りがあるが、この精神が受け継がれようとするとき、人々は聴き手から語り手に転じようとする。その繰り返しこそが人類の宿命なのかもしれない。