(30)『泥の河』

宮本 輝  『泥の河』   2007年10月

小田島 本有    

   昭和30年の大阪。河畔でうどん屋を経営する家の一人息子である信雄は、ある時同じ年の少年と出会う。名前は喜一。最近引っ越してきた舟に住んでいた。これが廓舟であることは8歳の信雄にはもちろん知る由もない。ただ、周囲の大人たちの会話の端々から、喜一の家族が嘲笑と蔑視の対象とされていることは子供ながらに勘づいていた。
 喜一との出会いは、鉄屑を盗もうとしている彼を信雄が咎めたことがそもそものきっかけだった。喜一は後に天神祭りの屋台からおもちゃのロケットを盗むこともしている。喜一には盗癖があったのだろう。それでも信雄が喜一と友達になったのは、喜一の置かれた境遇を憐れむ気持が働いていたからではないか。定住することを許されない喜一になかなか友達ができなかったであろうことも想像に難くない。喜一の母親は、男を相手にすることだけしかできず、十分子供の面倒を見ることもしていない。息子のズボンのポケットに穴が開いていたことも彼女はおそらく知らなかったはずである。
 信雄はこの家族と出会い、異性に目覚める。一人は喜一の姉銀子、もう一人はその母親である。汚れた足を丁寧に洗ってくれた銀子は、信雄にとって憧れの対象ですらあった。一方、その母親と出会ったとき、その美しさに惹かれながらも彼女が発する不思議な、なまめいた匂いに落ち着かなさを彼は覚える。それは身体を売る彼女が発する妖艶さであった。
 それだけに、作品の最後で、彼がたまたま舟の隣の部屋で、その母親の上で人間の背中が波打っている光景を覗き見てしまったときの衝撃の大きさは想像に余りある。このとき彼女はしっかりと信雄を見つめ返していた。それからほどなくしてこの舟がこの場所を離れて行ったのは、いわば必然的な流れだったのである。
 信雄が垣間見たのは大人の世界であった。それは彼にとっていかにも恐ろしい光景である。しかし、その意味をやがて彼は知ることになるだろう。
 その一方で、彼は喜一の残忍さ、凶暴さを目の当たりにした。雛鳥を寄越せと迫る中学生の双子に刃向かうように雛を握り潰し、それを相手の顔に投げつける。あるいは、ランプ用の油に蟹を浸し、そこに火をつけてその姿を「きれいだ」と言って楽しむ彼の態度に信雄の膝は震えた。このとき、彼は喜一とは本質的に相容れないものを感じ取ったのではないか。このとき既に喜一との別れは予感されていた。
 泥の河、それは大人の現実世界を暗示しているとも言えるだろう。