(64)『足摺岬』

田宮 虎彦  『足摺岬』 2010年8月

小田島 本有    

 語り手「私」は17、8年前、自分が自殺を思い、足摺岬を訪れたところから語り始める。このとき「私」は23歳だった。父親との確執、母親の死、貧乏生活。これらの要素が絡み合い、「私」は死に引き寄せられていったのかもしれない。
 「私」が宿泊した諸国商人定宿である清水屋での出会いが人生の大きな転換点となった。作品の冒頭、そこで将棋を指す80歳ぐらいの遍路、60歳を越えたと思われる行商の薬売りが登場する。このとき彼らは「私」にとって〈路傍の人〉にしかすぎなかった。だが、激しい雨の中、ずぶ濡れになって宿に戻った「私」を見て、彼らは甲斐甲斐しく介抱する。ここはしばしば自殺願望の人が訪れており、「私」もその中の一人だろうと既に気づいていたのだろう。お内儀(かみ)は「私」を見つめ、「馬鹿なことはせんもんぞね」と言うし、薬売りは金のことはかまわず「私」に薬を飲まそうとする。また、遍路は「のう、おぬし、今夜からおぬしはわしたちと相部屋にしようぞ」と語る。彼らはこのときを境にして〈親身な人〉へと変わったのである。
 人間だれしも苦しい過去を背負っている。夫が海へ出たまま行方不明となって子供二人が残されたお内儀も、戊辰戦争のとき幕府側に立った黒菅(くろすげ)という小藩と運命を共に覚悟すべく、泣く泣く女房や赤児を殺したという過去を「私」にだけ打ち明けた遍路も、日頃はただ表面に出さないだけだ。その彼らが「私」の死にたいという思いを理解できないわけがない。それでも彼らは「私」を生きさせようとする。その事実は重い。
 「私」の身を案じてくれたもう一人の人間がいた。お内儀の娘の八重である。足摺岬から夜遅く戻った「私」を涙を浮かべて待っていたのが彼女だったのだ。3年後、「私」は八重と結婚する。しかし、苦しい生活の果て、10年あまりで彼女は亡くなった。計算すると「私」は現在41、2歳である。八重との結婚が26歳だったとすれば、「私」が八重を失って最大2、3年しか経過していない。「私が八重を殺したといわねばならぬのだ」と語る「私」は、今でも喪失感に襲われているのだろう。
 久しぶりに訪れた亡妻の実家には、お内儀と八重の弟竜喜がいた。復員後、竜喜の生活が荒れ果てていることをお内儀は語る。竜喜は特攻隊員であった。その後「私」は夜遅く酒に酔って帰ってくる竜喜の悲痛な叫びを聞く。それは自分に「死ね」と言った者を呪う言葉だった。これを聞いて、おそらく「私」の脳裏には遍路の言葉が甦ったに違いない。
 「私」を「生」の側へ大きく呼び戻す力を足摺岬はもった。だが、生きるということは同時にさまざまなものを抱え込むということでもある。呻吟する竜喜をどうすることもできない「私」。それもまた生きるということに他ならない。