(69)『ひかりごけ』

武田泰淳『ひかりごけ』 2011年1月

小田島 本有    

 羅臼を訪れた「私」が中学校長から「凄い奴がいますよ」と、難破船長人食い事件の事実を知らされ、それを記した「羅臼村郷土史」を目にしたことが全ての始まりだった。船長が生き延びるため仲間を殺害してその肉を食べた可能性も想像しうることを執筆者のS青年はそこに記した。その記述が「私」の創作意欲を刺激したであろうことは想像に難くない。
 『ひかりごけ』の後半は「私」の手による二幕の戯曲で構成されている。第一幕ではマッカウス洞窟、第二幕では法廷の場が舞台である。前者が非日常世界であるとすれば、後者は日常世界と言ってよい。前者の場面では悪相の男であった船長も、後者ではそれが失われキリストの如き平安のうちにある。ただ両者に共通しているのが、船長の発する「我慢」という言葉である。
 船が難破して遭難し、飢えと寒さに苦しみ、仲間たちが衰弱していくなか、船長は死んだ仲間の肉を食ってでも生き延びることを主張する。それが軍属として御国のために尽くすことに他ならなかったからだ。仲間の肉を食いたくないのが人情であることは船長だって百も承知している。しかし、責任を果たすためにはその常識を振り棄てなくてはならない。船長があえて「我慢」という言葉を使う所以がここにある。結局船長は死んだ仲間の肉を食ったばかりか、彼に食われることを潔しとせず、自害しようとした西川の殺害をも企てた。
 船長は救助後、事実が露見し、裁判にかけられる。彼にはこの法廷の場が違和感に満ちたものであった。自分がとんでもないことをしたという認識はある。その自分を厳しく罰してももらいたい。しかし、裁判が自分とは無関係のものに思われる。船長はそのことを「我慢」という言葉で表現した。そして、彼は「あの方(=天皇陛下)」も我慢しているのではないか、とまで言う。当然のことながら、法廷は混乱した。
 ここで注目すべきなのは、人が人を裁くとはいかなることなのか、そもそも人が人を裁くことは可能なのか、という本質的な問いかけがされていることである。そして、船長が「我慢」を媒介として、機能としての天皇ではなく、個人としての天皇と自分との共通性を見出したことだ。自分を安全な立場に置いて、他人を表面的な次元で批判することはたやすい。しかし、それは何の意味もないのである。
 作品の最後では、裁判長、検事、弁護人、傍聴者、すべての人々に光の輪が現れる。船長は自分に光の輪が出ているのが見えるはずだと主張した。しかし、誰の目にもそれは見えない。なぜなら、光の輪の出た人間には他人のそれは見えないからだ。船長が「そんな馬鹿なこと。もしそうなら、恐ろしいこってすよ」と言うのはそのためである。誰もが罪深い行為をしながら互いに気づかずにいるという現実を、この作品は暗示している。