(103)『風の歌を聴け』

村上春樹 『風の歌を聴け』 2013年11月

小田島 本有    

 語り手「僕」は現在29歳。「僕」は8年間のジレンマを経験した今、1970年8月8日から26日に故郷で体験した事柄を語る。「完璧な文章なんて存在しない」という絶望的な気分に駆られていたはずの「僕」がである。
 東京で大学生活を送っていた「僕」が夏休みに帰省する際、訪れるのはジェイズ・バーであり、そこには「鼠」と呼ばれる友人が常連客としていた。「鼠」は本もほとんど読まない男だった。
 だが、「鼠」はあるときから深刻な様子を見せるようになる。彼は「僕」に会って欲しい女性がいると話した。結局この計画は後に取りやめとなった。
 その一方で、「僕」はひょんなことから指が4本の女の子と出会う。その彼女は「旅行に行ってくる」との言葉を残して一週間ほど姿を消したが、その後彼女はそれが嘘であったこと、実は中絶手術を受けていたことを告白する。彼女の相手が「鼠」であった可能性は高い。
 その頃から「鼠」は本を夢中になって読み始めるようになり、小説を書きたいと語る。彼が目指すのは死者が登場せず、セックスシーンのない小説だ。
 一方「僕」は高校時代の終わりごろから心に思うことの半分しか口にしない人間だった。作品を読んでいると、「僕」がしばしば女の子たちから「嫌な奴」「嘘つき」と罵られる場面がある。これらはいずれも「僕」の寡黙さが原因である。指のない女の子は「なおさないと損するわよ」と諭してもくれる。「僕」には大学時代に肉体関係のあった仏文科の女子学生が首をつって自殺したという思い出もあり、これが大きく影響したであろうことは容易に想像しうる。彼女の自殺の原因は分からない。その分だけ「僕」の心には暗い影を落としたと言えよう。
 ただし、この作品には救いがある。それは、高校時代の同じクラスの女の子がラジオで「僕」あてに思い出の「カリフォルニア・ガールズ」をリクエストしたことだ。「僕」は彼女のその後の消息を確かめるが、大学を退学したことしか分からない。だが、その後彼女の妹らしき人が番組に手紙を宛てて、姉が自分の看病のために大学を辞めたことを伝えていた。この姉のためにも、自分は前向きに生きたい、と彼女は書いていたのだ。
 この同級生にとって「僕」は生きる支えだったのかもしれない。しかし、「僕」もまたそれを知ることが、新たな歩みを可能にさせたのである。
 「僕」は現在妻がいて、幸せな生活を送っている。そして、文章について多くを学んだ作家デレク・ハートフィールドが飛び降り自殺をしたのが29歳のときだった。その同じ年齢に自分がなったということが「僕」を表現に駆り立てたのである。