(117)『枯木灘』

中上健次『枯木灘』 2015年1月

小田島 本有    

 確かにきっかけをつくったのは異母弟の秀雄だった。自分の実父である浜村龍造を「おまえ」呼ばわりする竹原秋幸に腹を立てた彼は、石をもって殴りかかってきたのである。その点からすれば、秋幸の行動は正当防衛のように思われる。だが、果たしてそうだろうか。
 投げ返したとき、秀雄は秋幸の下にいた。組み敷かれた秀雄が下から秋幸の鼻面を殴ったことで温かい血が流れたとき、それまで冷静だった秋幸に確かな変化が起こったのである。それは明らかに殺意をもった行動だった。こうして秋幸は殺人者となり、自首をすることになる。
 『枯木灘』は芥川賞受賞作『岬』に続く作品であり、登場人物も共通している。『岬』では24歳だった秋幸も『枯木灘』では26歳。彼は複雑な家庭環境のもとで育っている。実父の浜村龍造は博打の喧嘩がもとで3年間の刑務所暮らしを余儀なくされた。そして、このとき龍造はほぼ同時期に3人の女性を身籠らせていたことが判明する。それを知った秋幸の母フサは刑務所に行き、離縁を申し出た。後にフサは再婚に際し父親の違う秋幸だけを連れていき、前夫との間にできた4人の子供を置いて行った。そのことが子供たちの心に深い影を落としたことは想像に難くない。秋幸の兄にあたる郁男がフサと秋幸を殺そうとして現れ、それが果たせずに自ら首を吊って死んだのは郁男が24歳のときであるが、この光景を目撃した少年秋幸がそこに澱んだ血の葛藤を見出したのは言うまでもない。それは、究極のところ、実父浜村龍造に起因する呪いとして秋幸には感じられたはずである。
 秋幸は腹違いの妹、女郎のさと子と身体の関係をもち、この事実を後日龍造に伝えた。このとき、秋幸が期待したのは慌てふためく父親の姿である。だが、このときの龍造は「二人ともわしの子じゃ」「かまん、かまん。アホが生まれてもかまん」と、何ら動揺を見せることがなかったのである。
 秋幸の周囲にはさまざまなことが起こった。それらを目の当たりにするたび、悪の元凶として浜村龍造は彼の眼には映っていた。彼が秀雄を執拗に攻撃し、最終的に死に至らしめたのも、その先には憎むべき実父の姿が見据えられていたからだろう。
 秀雄の葬儀の翌日、秋幸の現在の父である竹原繁蔵は龍造のもとを訪れた。繁蔵はある種の覚悟をもって訪れたものの、龍造は一言も愚痴を言わない。「殺された秀雄が殺されるような事をしたんやろし、警察にも、相手の正当防衛やと話した」と龍造は語った。そして、繁蔵に対し、「お父さんが苦しまんでもええ」と言ったという。「あの男もたいしたもんじゃ」と語る繁蔵はこの一件を通じ、龍造のある一面に触れることになる。
 殺した側も殺された側も共に自分の息子。この重い事実を前にして、龍造は多くを語らない。