(118)『四季』

中村真一郎『四季』 2015年2月

小田島 本有    

 『四季』は中村真一郎の『四季』4部作の最初に位置づけられた作品である。中村がマルセル・プルーストの影響を強く受けていることはよく知られているが、『四季』は中村なりの<失われた時を求めて>だった。
 『失われた時を求めて』では、主人公マルセルが一人で過去を想起していたのに対し、『四季』ではそれが主人公「私」とKの対話、すなわち共同作業によって実現されている。だが、二人の記憶は同一ではないし、二人の前に現前するものは必ずしも事実とは限らない。この作品は、「それが夢の発端だった―」で始まり、最後は「これで夢が完結した」という主人公の思いで締め括られている。彼の前に現れる過去が事実かどうかは二の次であり、大切なのはそれが現在の自分にいかなる影響を及ぼすかなのである。
 もう50歳を迎えた二人は、30年前の記憶を辿るべく、高原の避暑地を訪れる。そこでは多い時で10名近くの若者が共同生活をしていた。時代はカタストロフィー(破局、悲劇的な結末)の予感が迫る頃。誰もが自分たちの生命が長くないことを感じており、それがかえって「名状しがたい明るさ」を醸し出してもいた。その彼らにとって「秋野さんのお嬢さん」は特別な憧れの存在だったのだろう。近くには無為徒食で本を読み続ける独身インテリの秋野さん(彼が「お嬢さん」の叔父だった)、病弱な近江教授もおり、若者たちは彼らとの触れ合いの中で知的好奇心も刺激されていた。
 しかし、この小世界にも闇の部分は確実にあった。秋野さんには彼の人生を拘束する寝たきりの姉がいたし、夫人との関係はすっかり冷めきった中で、自分を介護してくれる看護婦と恋愛関係に陥っている近江教授の姿を「私」は垣間見たりもした。お嬢さんからもらったボードレールの詩集を「私」は仏印に赴く友人に餞別として贈ったが、その友人の船は沈没し友人は亡くなった。その事実を伝えたとき、お嬢さんから返ってきた言葉は、「あの人はともかくとして、海に沈んだボードレールの詩集は惜しかったわね」だった。Kの言葉が端的に示すように、「あのお嬢さんの言葉を、海に沈んだ男の親が聞いたら、彼女はぶち殺されてしまったかもしれない」だろう。Kは、そのあとでお嬢さんを弁護するローズ・マリーの囁きを聞いた記憶があるという。だが、「私」の記憶ではローズ・マリーはお嬢さんそのものだった。あくまでもお嬢さんを憧れの対象として保持したいと願うKは、この二人を全くの別人として思い込むことによって、お嬢さんのイメージを守ろうとしたのかもしれない。これもまた青春の一つの形と言える。
 Kが「私」を伴い、思い出の地を訪れようとしたのは、停年を間近に控え、新たな決断の必要性を本人が感じたためであった。50代というのはその点で大きなターニングポイントなのである。