(122)『本格小説』

水村美苗『本格小説』 2015年6月

小田島 本有    

 寡作だが発表される作品はいつも骨太。水村美苗の小説はそのような印象がある。
 本編に入る前におかれた「本格小説の始まる前の長い話」は、長い間私小説を本流としてきた我が国の土壌において、日本語による「本格小説」を試みようとする作者の意図が語られている。タイトルそのものが『本格小説』であることはその意気込みを示すものだ。
 この作品は三重の入れ子構造になっている。そこには一人の青年、加藤祐介が介在している。ここでは上流階級で長年女中をしていた土屋冨美子が祐介に話した内容が「私」(水村美苗)に伝えられ、「私」がそれを読者に語るという体裁がとられている。しかも、話題の中心になる東太郎は、「私」の父親がアメリカで所長を務める会社で一頃中卒の組立工として働いていた男であった。貧困な家庭環境から這い上がり、渡米して巨万の富を得た成功者。その華やかな経歴の一方で、幼い頃に芽生えた上流階級の娘よう子への思慕が長きにわたって残っていた。
 冨美子は太郎とよう子が出会ってからの経緯を目撃した証言者。冨美子は三枝家の次女夏江が嫁いだ宇田川家に奉公していた。太郎が家で虐待を受けていることを知り、彼を保護したいという気持ちもあり、夏江の娘よう子の「友達」として緊急避難的に預かることを決意したのが「お祖母さま」であった。
 だが、太郎とよう子はあまりにも育ちが違い過ぎた。結局は仲を引き裂かれ、失意を味わった太郎は新天地を求め渡米することになる。彼が「私」の父親の下で働くようになったのはそのような背景があってのことだった。
 よう子は重光家の雅之と結婚し、幸せな家庭を築いていた。そこへ太郎がしばらくぶりに帰国する。太郎は未だに独身だった。それ以後、太郎とよう子はしばしば会う。そして、建築士でもあった雅之に太郎が仕事の依頼をするようにもなる。よう子は結婚した時点で雅之に太郎のことを語っていたようであり、この三人の不思議な関係は当人たちは納得済みのことであった。だが、「伯母の一言」が雅之の心に動揺を与え、彼が発したよう子への言葉が彼女を傷つけることになってしまった。失踪した彼女は幸いにも発見されたが、その後肺炎を起こし、呆気なく亡くなってしまうのである。
 この作品は確かに太郎とよう子の悲恋物語と言えよう。だが、この作品には別の側面もあった。三枝家の三女である冬江が祐介に太郎と冨美子との間にも関係があったことをほのめかす場面がそれである。この二人は10年以上の年の差があり、しかも冨美子が年上である。だが、どこにも行き場所がない少年の太郎を自分の家に半年間住まわせた冨美子の心に、いつしか感情の変化が生まれたとしても何ら驚くにはあたらない。もちろん、冨美子は祐介にこのことだけは伏せて語った。
 語るということ、それは何かを語らないということでもあるのだ。