(123)『小さいおうち』

中島京子『小さいおうち』 2015年7月

小田島 本有    

 『小さいおうち』は第一章から第七章までがタキの回想記、最終章が健史の文章、という構成になっている。健史はタキの甥の次男。タキの回想記の中にもしばしば登場してくる。
 健史はタキが綴るノートを盗み読みしてはその内容に対して不満を述べていた。その頃は戦争をしていたはずなのに、「おばあちゃん」の描く世界にはその影がない。健史曰く、「おばあちゃんは間違っている」と。ここには、その時代を生きていた庶民の感覚と、歴史的な視点で俯瞰した現代人とのずれが認められる。
 だが、健史はタキの死後このノートが彼の手元に残されてから大きく変化した。ノートの中で明らかにされていない部分を解明すべく、彼は自ら行動を起こすのである。それは歴史を外から眺めるのではなく、内側から理解しようとする人間への変化でもあった。
 タキは正式な学校教育は受けていない。だが、小中先生が言うところの「頭のよい女中」だった。ここで言う頭のよさとはその場に相応しい行動ができるということである。彼女の場合、それが奥様と板倉さんの恋愛事件に関わったときだった。奥様が板倉さんの下宿へ行くと人目につくことを警戒した彼女は奥様に手紙を書かせ、それを板倉さんに託し彼に来てもらうように仕向けた。だが、タキは二人を深入りさせることはしない。出征する板倉さんに会いたがる奥様を制し、タキは奥様に手紙を書かせた。だが、この手紙は結局開封されずにタキの手元に残ったのである。
 ただ、ここにはさらに深い事情があった。タキの頭には奥様をお守りしたいという女中の立場があった。しかし、その一方でタキの心の中には嫉妬の念があったのである。彼女は奥様に恋していたのだ。
 この時子奥様を恋していた人物が少なくとも三人いた。タキ、板倉正治、そして松岡睦子である。睦子は時子の女学校時代の同級生。睦子は同級生の結婚が決まって自暴自棄になった女性の話をタキにするが、それは紛れもなく自分自身のことであった。タキが同じ女性に恋していることに気づいた睦子は「ぜったいに内緒」と断りながら、その話をしたのである。
 健史は真相を解明する。板倉は戦地で戦争の悲惨な現実を目の当たりにして帰国し、時子奥様の死を知ることになる。戦後ブラックユーモアに富んだ漫画家となったイタクラ・ショージだが、彼は紙芝居「小さいおうち」を残した。彼にとって、この家はかつて勤務していた会社の上司の家であり、ここをしばしば訪れていた。そこの奥様が時子である。その絵には二人の女性と男の子が描かれている。それが時子とタキ、恭一ぼっちゃんに他ならない。板倉は生涯独身を通した。彼にとって「小さいおうち」は忘れ難いものであり、時子奥様を絵の中に描くことによって彼は彼女を永遠化したのである。