(130)『煤煙』

森田草平『煤煙』 2016年2月

小田島 本有    

 日本女子大学出身の若きインテリ女性平塚明子との塩原事件を題材として森田草平が綴った話題作が『煤煙』であった。
 平塚明子は真鍋朋子、森田草平は小島要吉として登場し、作品は要吉を視点人物として描かれる。全34章のうち冒頭の6章は要吉の故郷大垣でのことが扱われているが、母お絹と老画工との関係、あるいは自らの出生に対する疑念、さらには実家の財産の問題など、彼を取り巻く暗い影に関する記述と後半の逃避行事件がどう結びついて行くのか、作品は必ずしも明らかではない。
 彼には田舎に隅江という妻がいた。二人の間には幼い子供もいる。その一方で、東京の下宿先でお種という女性とも深い関係になっており、そこの小母さんが要吉を諦めて他の男性と結婚するよう娘に勧めてほしいと彼に依頼する場面も見られる。また近所に住むお倉という女郎上がりの女性にも彼は心惹かれている。
 要吉が神戸と共に始めたのが「金葉会」という勉強会である。そこで知り合ったのが朋子だった。作品からは朋子の危うさ、捉え難さに要吉が惹かれてしまい、彼女にどうしようもなく翻弄されていく姿が殊更印象に残る。例えば、彼女が短刀を取り出し、「これで何処でも可いから、私の肉を裂いて――血を啜つて下さいまし。それより外に両人(ふたり)が一つになる道はありません」と言ったとき、彼は「私は死ねる。貴方と同じ理由でなら死に得る」と答えている。この言葉を発したことによって、要吉は自分の言葉に搦め取られてしまったのではないか。彼は時には朋子の精神の異状すら疑っているのだ。それでも深みに嵌まっていくのは人間の性なのだろうか。
 我が子が病気のため急死する。ほどなくして彼は妻を実家に帰し、離婚することを決意する。心は完全に朋子の方へ向かっていた。だが、その彼も朋子に愛されているという実感があったわけではない。そのもがきの中でよけい朋子から離れられなくなっている彼がいた。
 彼らは那須の塩原へ向かう。しかし、いざというときに「貴方は私のために死に、私は貴方のために死ぬ。さう言つてください。私を愛すると、唯一言」と促す要吉に、「その時迄、その時迄言へない」と頑なに拒む朋子。この後、彼が短刀を谷間に投げ、「私は生きるんだ。自然が殺せば知らぬこと、私はもう自分ぢや死なない。貴方も殺さない」と宣言するのは、いわば必然的な流れだったと言えよう。
 森田は夏目漱石の薦めもあり、自らの体験をこのように小説化した(漱石自身はこの作品を必ずしも高く評価していたわけではなかった)。一方の平塚明子が後に『青鞜』を創刊し、女性解放運動家として活躍する平塚らいてうであることは改めて断るまでもない。