(141)『病牀六尺』

正岡子規『病牀六尺』 2017年1月

小田島 本有    

 『病牀六尺』は明治35年5月5日から9月17日まで新聞「日本」に127回にわたって連載された。最終回の2日後に正岡子規は亡くなっている。まさに彼の命懸けの随筆が『病牀六尺』だった。
 「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである」と冒頭に子規は書いていた。彼の死から13年後、夏目漱石が『硝子戸の中』の冒頭で、「書斎にゐる私の眼界は極めて単調でさうして又狭いのである」と述べている。漱石には若くして亡くなった親友のことがこのとき脳裏をかすめていたのかもしれない。
 この『病牀六尺』、子規という人間を知るうえで興味深い資料と言えるだろう。寝たきりの自分を献身的に介護してくれるのは妹の律だが、彼には彼女の介護が満足できない。病苦をどう慰めるのかわからぬ家族を目の当たりにして、彼は「女子には教育が必要」との持論を展開する。新聞を読んでもらおうにも仮名がふっていないと読めないのでは話にならない。これが彼の言い分だ。病気の介抱には形式的なものよりも精神的な部分が大切だという理屈は確かにそのとおりだが、妹に対する心遣いがあるとはどうも受け取れない。
 『病牀六尺』から伺えるのは、彼が現状に満足せず絶えずそこからの脱却を図ろうとする意欲の激しさである。それは『源氏』『枕草子』ばかりに関心を向け、徳川文学には目を向けようとしない国文学者や和学者への批判に端的に現れている。彼が写生論を唱えたのも、能楽における家元制度に疑問を投げかけたのも同様だ。一芸だけにこだわる在り方から脱却し、「一人で出来るだけの芸を兼ねて遣るやうにしたら善からうと思ふ」と語る彼がもし今生きていれば、大谷翔平の二刀流に諸手を挙げて賛成していただろう。彼はこうも語っている。「かういふ事をいふと昔風な頑固な人は、それは出来るものではないと拒むかも知れない。一芸に達する事さへ容易でないのに数芸に達するなんかは思ひも寄らぬ事であるなどといふであらう。それも一理がないではないが必ずしもさういふ訳のものでもない」。子規が大の野球好きで野球殿堂入りしている事実はよく知られている。
 「『病牀六尺』が百に満ちた」と書かれたのは8月20日の記述である。「この百日を経過した嬉しさは人にはわからんことであらう」と子規は語っている。彼のもとには100枚注文したはずの状袋が300枚用意され、子規を驚かせた。この状袋はまだ200枚残っている。「二百日は半年以上である。半年以上もすれば梅の花が咲いている。果して病人の眼中に梅の花が咲くであらうか」との願いは果たされることはなかった。その一か月後に彼は35年の生涯を終えたのである。
 「俳病の夢みるならんほとゝぎす拷問などに誰がかけたか」。『病牀六尺』の末尾が芳菲山人からの書簡に添えられた短歌であるのが殊更印象的だ。