(166)『西班牙犬の家』

岡本綺堂『子供役者の死』   2019年2月

小田島 本有    

  佐藤春夫が代表作『田園の憂鬱』を生み出すきっかけとなったのが『西班牙犬の家』である。当時作者は神奈川県の郊外に移り住んだものの、読書をしようにも書物がなく、絵を描こうにも絵の具がないという中、愛犬フラテと田園地帯を散策するしか無聊を慰める手段がなかったことを本人が後に回想している。ちなみに作者自身はこれを処女作としている。
 作品は「フラテ(犬の名)は急に駆け出して、蹄鍛冶屋の横に折れる岐路のところで、私を待っている」の一文から始まる。この犬は「時々、思いもかけぬようなところへ自分をつれてゆく」ので、「私」の「好奇心」も掻き立てられ、まだ訪れたことのない蹄鍛冶屋の横道をフラテの案内に任せて歩こうと決めた。形としてはフラテに任せているが、そこには「私」の明らかな意志があったのだ。作品中には「好奇心」という言葉が何度も登場する。これが「私」のまさに原動力だったのである。
 「私」が辿り着いたのは窓がすべてガラス戸の西洋風の家であった。扉をたたいてみるものの返答はない。中を覗くと部屋の中央に石でできた大きな水盤があってそこから水が不断にこぼれている。近くの大きな卓の片隅で吸いさしの煙草から煙があがっており、つい先ほどまで人がいたらしい。
 中に入ると真っ黒な西班牙犬がいた。この犬は柔和で「私」の手のひらをなめたりもする。卓の上には置時計があり時を刻んでいたが、時間はかなり遅れていることに「私」は気づく。いつまで経っても主人が戻らないため、「私」は帰ることにした。
 扉を閉めて外に出て、もういっぺん家の中を覗き込むと、例の西班牙犬がのっそりと立ち上がったが、そのとき「私」は「ああ、今日は妙な奴に駭かされた」という人間の声を耳にする。「私」が瞬きをすると犬は「五十恰好の眼鏡をかけた黒服の老人」に姿を変え、大机によりかかり、まだ火をつけぬ煙草をくわえたまま、一冊の本の頁をくっていたのであった。『西班牙犬の家』は、一見すると私小説のようなスタイルを取りながら、非日常の世界に紛れ込んだ「私」の心象風景を描いた作品だった。時計の針が大幅に遅れていた時点で、「私」の感覚は現実世界からかけ離れていたのだろう。
 家の中にいる場面で、「ひょっとするとこの不断にたぎり出る水の底から、ほんとうに音楽が聞こえて来たのかもしれない。あんな不思議な家のことだから」という記述がある。「私」がその家にいるのだから、この場合「あんな」ではなく「こんな」とすべきなのだが、この作品は何度か改稿がされていながら現行の形のままなのだ。
 いずれにせよ私小説・心境小説が幅を利かせていた当時にあって、この作品は極めて異質な実験小説であったと言えよう。