(167)『銀二郎の片腕』

里見弴 『銀二郎の片腕』   2019年3月

小田島 本有    

  この短編は里見が自分に兄事したことのある中戸川吉二から聞いた目撃談をもとに書かれたものである。中戸川は釧路出身。生後まもなく東京に移り住むものの、養父となった叔父が牧場を経営する釧路に再び転居したという経歴を持っている。
 この作品は聞き書きというスタイルが取られているが、主人公は1年の半分は雪に閉ざされる地方の牧場で牧夫を務める銀二郎という男。女主人は夫と死別し、子供もおらず、今では牧夫たちの前で姉御肌を発揮するタイプの女だった。世話好きで気丈でもあり、その姿は時には威厳すら感じさせたという。この女主人の家は10年来中風を患っている舅が同居していた。ある晩、この舅が酒を貪っている姿に逆上した女主人は舅を張り倒し、馬乗りになって打擲した。これを聞きつけた銀二郎はそれを制止する。
 大事には至らなかったが、女主人が懸念したのはこの一件が銀二郎によって吹聴されないかということだった。そのため、女主人は彼を呼び、このことを決して口外しないよう言い含める。
 銀二郎は口外するつもりはなかったものの、心の中は複雑だった。彼にはこの女主人への思慕が潜在しており、その彼女の言い訳の中に嘘が混じっていることに気づいたからである。銀二郎はもともと潔癖な男であり、それゆえ都会から町へ追われてきたという過去があった。
 長かった冬が終わり夏場を迎える頃は女主人に生き生きした姿が甦り、それが銀二郎にも幸福感を与えた。と同時に、そこには悩ましい思いも混在していたのである。  冬を迎える頃、舅を過ごさせる隠居所の落成祝いが行われる。酒宴は陽気さが漲っていたが銀二郎の心は冴えない。彼には新しい隠居所がもともと舅が済んでいた病室より良くなったとも思えなかったし、かえって寒そうに感じられたからである。客たちが女主人を誉めそやし、これを美談として持ち上げ、それに乗じて「畳建具なんだかんだで、存外費りましたよ」と答える女主人の言葉に我慢ならず、とうとう銀二郎は激昂し、彼女を「大嘘つき」「汚らわしい女郎」と罵る。
 銀二郎は彼女への思慕があったからこそ、嘘で善人面をする姿が許せなかった。そして彼は土間にある鋭利な鉈に気づく。彼としては女主人をこれで殺したかったに違いない。だが、それはできないと咄嗟に判断した彼がとった行動は、自分の左の腕を薪割台の上へ乗せ、そこに鉈を振り下ろすことだった。「ヤイ、これを手前にやらア」と捨て台詞を残してその片腕を放り投げ、銀二郎はその場を立ち去った。
 その後銀二郎がどうなったか、誰も知らない。だが、そのあまりにも衝撃的なシーンは読者にも鮮明な印象を刻印するであろう。