(190)『世間師』

小栗風葉『世間師』  2021年2月

小田島 本有

 作品は作者が師の幸田露伴の使いで滞在した下関の宿での体験が素材とされている。
 「私」が気まぐれに家を出て旅をしたのは二十歳前のことだった。やがてお金にも困った中で辿り着いたのが安宿の山本屋である。このとき救いの手を差し伸べてくれたのが「銭占屋」と呼ばれる男であった。彼は銭占判断ということを行い、その次第書を販売して生計を立てていた。「私」はその手伝いをしながらそこで滞在することができたのである。
 ところで、「世間師」には「世渡りが上手く悪賢い人」の意味がある。銭占屋は自らを世間師として認めているし、同じ宿で暮らす万年屋の夫婦をも同類と見なしている。この夫婦は「小供瞞しの玩具」とも言える万年筆を造って商売をしている。この夫婦には悪賢いという印象はない。実は「世間師」には「旅から旅を渡り歩いて世渡りをする人」の意味もある。彼らはむしろこちらの意味合いが強いか。
 銭占屋は、銀行が支払い停止になって慌てた万年屋の主人が一週間あまり不在となっている間にその女房と深い仲になった。それだけを取り上げれば悪賢いと言えなくもない。確かに戻ってきた亭主に「女だって活物(いきもの)だ、なぜその日に困らねえようにして置いてやらねえ。食わせりゃこっちが飼主よ」と嘯くところは、現代の我々の常識からすると女性差別の匂いはするものの、他人の女房に対する憐みの情があったのも否定できない。しかも、彼は最終的にはこの土地を離れる決心をし、すがる彼女を振り切った。そして元の鞘に収まることを進言するのである。
 そして彼は絶えず「私」には気をかけてくれる。彼には両親も故郷もなく、天涯孤独の身である。その彼には「私」はかつての自分の姿と重なって見えたのではないか。そして両親が健在で故郷もある「私」に「じゃ、早く国へお帰んなせえ。こんな所にいつまで転々(ごろごろ)していたってしょうがねえ」と帰郷を促す。この辺は夏目漱石『坑夫』の末尾で主人公に坑夫から足を洗うよう諭す「安さん」を彷彿させるところがある。
 銭占屋の厚意はこれだけではない。「旅用だけの事は何とか工面してあげるから」と約束し、事実彼は約束の日からは遅れたものの、お金を送ってくれた。
 銭占屋はそもそもこれだけ長くこの地に逗留するつもりはなかったと語っている。それが思いのほか長くなったのは年若い「私」の存在が大きかったのではないか。だが、銭占いの仕事もだんだん大変になっていることを彼は語っていた。彼の中にも潮時ということが意識されていたのかもしれない。
 銭占屋が去った後、「私」は「何とも言えぬ寂しい哀感」を覚え、望郷の思いが強くなる。「私」がこの土地を離れる日もそう遠くないはずだ。