(202)『澪』

長田幹彦『澪』  2022年2月

                小田島 本有

 中村一座は道内を興行して回り、室蘭を訪れていた。田之助はそこで役者を務める美しい男である。『澪』は彼をひいきにするお勝さん(佐川かつ)の強引な誘いに引きずられて駆け落ちをするものの、途中で見つかり彼自身は室蘭に戻ることを決意する物語である。
 お勝さんは小樽の角正という裕福な運送店の総領娘であった。我が儘で勝ち気な性格であったため、彼女の勢いに彼もそれまで押されているところがあった。継母との折り合いが悪く、彼女は金や証券を持ち出して家出をした。そして東京へ向かう途中室蘭に立ち寄り、仕事の終わった彼を呼び出して一緒に東京へ行かないかと誘う。このままここで旅役者としてくすぶっているよりは、東京へ出て商売をするか、あるいは師匠について芸を磨いた方がいい、というのが彼女の言い分だった。彼はいったん彼女から逃げようとするが、すかさず彼女は「お前さんも随分薄情なんだね」と激しく言い切って背を向ける。こうすれば田之助が反抗できないことを見越しての態度だった。だが、お勝さんに説き伏せられてからは逆に東京行きを楽しみにする田之助が一方ではいた。
 ところが、船が森まで来たとき、一人の制服巡査が乗り込んできて船客名簿の閲覧を求める。お勝さんは「荒井みつ」という偽名を使っていた。だが30名ほどの中で婦人は彼女一人だけであり、巡査に「お前さんは小樽の佐川かつという人じゃないかな?」と言い当てられる。二人は駐在所に連れて行かれて取り調べを受けた。やがてそこに現れたのは瀬口久蔵という、角正の人間だった。久蔵はお勝さんを連れ帰ることになったが、一緒にいた田之助に対して荒立てることをしない。そしてこのまま室蘭に引き揚げるのが身のためだと忠告する。「室蘭」と聞いて田之助は嬉しさを感じた。そしてその場を立ち去るのである。
 その彼を追いかけてきたのがお勝さんだった。彼女は彼に一緒に小樽へ行かないかと誘ったが、彼は断る。そして座頭(おかしら)に詫びをいれるつもりであることを伝えた。「じゃお前の勝手におし」と言ったお勝さんの瞳の底には激しい憤怒が燃えていた。
 お勝さんと別れて、彼は安心して深い嘆息をついている。「蛇のように執念深く身に附纏っていた恐ろしい危険から、全く逃れ出たことを確めると、彼は何ともいえぬ歓喜を覚えて、勝ち誇ったように心底からお勝さんの名を呪った」という一文がある。これまでどれほど彼女が田之助を呪縛してきたかがよく分かる。これまで二人の関係は決して対等ではなかった。
 一座に戻るとたぶん彼は仲間に迷惑をかけたことでこってり絞られるだろう。だが、それは改めて仲間として認めてもらうために必要なことなのだ。田之助はこの駆け落ち騒ぎから確実に学んだようである。