(158)『最後の一句』

森鷗外『最後の一句』  2018年6月

小田島 本有    

  船乗り業桂屋太郎兵衛が犯罪者となったのは、自分が所有する船が暴風雨のため難破し、雇用していた新七の甘言に抗することができなかったからである。しかも新七は逃走し、罪を被るのは太郎兵衛だけだった。
 太郎兵衛が入牢して2年が経過していた。彼が斬罪に処せられることが決定し、その命を何とか助けたいと思う人物がいた。それが長女のいち(16歳)である。
 太郎兵衛にはいちを含め全部で5人の子供がいる。いちは父親の助命を乞う願い書を書き、その中で長太郎を除く4人の子供の命を差し出す旨を伝えた。長太郎は太郎兵衛の実子ではなく、桂屋の跡取りと目されている。だが、長太郎は自分も姉2人と共に奉行所へ行くことを申し出、姉とは別に自分も命を捧げる旨の願い書を書いた。
 子供たちが奉行所を訪れたのは開門前の早朝である。門番は彼らを追い返そうとする。二女のまつは「あんなに叱るから帰りましょう」と姉を促すが、いちの心は揺らぐことはない。
 いちの機転が奏功し、家族は奉行所の白洲で尋問を受けることになった。そこでもいちは臆する気色も見せず、堂々と陳述をする。尋問は子供たち一人一人に及ぶが、末子の初五郎(6歳)が「おまえはどうじゃ、死ぬるのか」との問いに対して活発にかぶりを振る場面は微笑ましくもある。自らの命を捧げるという意思は必ずしも子供たちの総意ではない。
 この作品の圧巻は、願いが聞き届けられると殺されることを改めて取調役が確認した際に、いちが発した「お上の事には間違いはございますまいから」の一句であった。実はこの前に、取調役は願い書が平仮名書きとは言いながらしっかりした文面であることに疑問を抱き、「間違い」はないかどうかを再三にわたって確認していた。いちが思わず発した「間違い」の語はそれに触発されたものだったのである。だが、この言葉はその場にいた役人たちを驚愕させるには十分だった。いちは何もお上を挑発することを意図していたわけではない。一庶民としてお上の判断に「間違い」はないはずだという素朴な思いを表したにすぎなかった。思えば、『高瀬舟』の庄兵衛も罪人喜助の話を聞いてこれが果たして人殺しと言えるのかという疑いが生じ、結局その判断はお上に委ねるしかないと考えていた。
 いちたちが立ち去った後、奉行は思わず「生い先の恐ろしいものでござりますな」と呟かずにはいられない。
 作者鷗外は最後官僚のトップにまで昇り詰めた人間である。庶民たちはお上に間違いがないことを信じている。だが、そのことを苦々しく感じていたのが鷗外ではなかったか。
 作品の結末で、大嘗会執行のゆえに恩赦が下され、太郎兵衛は死罪を免れ追放となったことが述べられている。そこには偶然的要素も重なっていたが、この事実をいちはどう受け止めたのだろうか。