(171)『虎』

久米正雄『虎』   2019年7月

小田島 本有    

  深井八輔は新派俳優であり最も有名な三枚目役者である。だが彼自身、道化を演じる今の地位に満足しているわけではなかった。彼には亘という8歳になる息子がいる。この息子も父親と同じ役者の道に進むことを宿命づけられているが、深井が息子を三枚目にはしたくないと思っているところに、彼のわが身に対する複雑な思いを垣間見ることができよう。
 あるとき、深井に虎の役が回ってきた。台詞はない。周囲からの視線には嘲笑の色が交じっているようにも感じられる。彼にも悲しさはないわけではない。だが、その一方で、日本中で虎をやれる役者は自分しかいないという自負もある。台詞がないだけに、彼はどう虎の役を演じるか、一人で考えなくてはならないのだ。
 そんなあるとき、亘が上野の動物園に行きたいと言い出す。息子は「河馬が来てるんだからさ」とその理由を語っているが、果たしてそれだけが理由なのであろうか。父親が虎の役をすることを知った息子が意図的に動物園行きを提案した可能性も考えられないわけではない。事実、深井は虎の実態を研究しておくのが急務だと考え、この提案を受け入れている。  動物園に入るなり、親子は別々の行動をしたため、深井はじっくり虎を観察することができた。虎は物憂げに蹲っており、ただあくびをするだけである。それを眺める深井も動かない。彼は虎が自分の境遇に似ているようにも感じられ、しだいに同情の念が湧き、一種の憐憫、妙な愛情を覚えるようになる。
 彼が虎の役を演じることになり、動物園に通って研究中であることが新聞の記事にもなった。これを見た当初、彼は「一種の憤激に近いもの」を感じたが、やがて「晴れやかな微笑」を浮べるようになる。実際に虎を観察することで得られた確信が彼の精神を根底のところで支えていたのだろう。
 本番での深井の演技に観客は湧き立ち、喝采した。彼も満足を覚え、舞台を引き上げた。するとそこにいたのは亘である。「お父さん」と縋り付く姿に、深井は「得意の絶頂」から「愧恥のどん底」に一瞬落とされるが、息子は父親を軽蔑したわけではない。父の置かれた苦しい境遇に対する同情の念がその瞳には込められていたのである。深井が息子を抱き寄せ、二人がしばし泣き合う場面で作品は閉じられる。
 亘もやがて父親と同様役者の道を歩むことになる。深井は息子を三枚目にはしたくないと望んでいるが、果たして息子は虎の役を見事に演じ切った父親の姿を見てどのように感じ、今後いかなる道を選ぶのであろうか。父親の演技を見て息子の流した涙はたんなる憐れみなのか、それとも感激なのか。読者がどう判断するかによって、亘の将来における役者像が大きく変わることになるのである。