(199)『山の手の子』

水上滝太郎『山の手の子』  2021年11月
                                      小田島 本有

 「山の手の子」とは語り手「私」(新次)をさす。現在20歳となる「私」は幼い頃、崖下にある場末の街を頻繁に訪れたこと、とりわけ自分を可愛がってくれたお鶴との思い出を語る。
 「お屋敷の子」として「生れた悲哀」を味わっていた「私」にとって、我が家は「牢獄」のようなものだった。両親や乳母からも下へ降りていくことを「私」は厳禁される始末。そのことが逆に崖下への憧れを掻き立てる結果になったのは言うまでもない。
 あるとき崖の上に立っていると、「坊ちゃんお出よ」と下の子供に声をかけられ、誘われるように「私」は降りていく。最初のうちは珍しさもあってちやほやされていた「私」も、いつしか子供たちの手下的な存在となっていた。
 その「私」がやがて出会うのは金ちゃんの姉であるお鶴という若い娘だった。煙草屋の縁台はたまり場になっていたが、彼女は「女主人公」とでもいうべき存在。彼女は衆人環視のなか、幼い「私」を膝の上に乗せ頰ずりをする。「私」にとってこれが異性への目覚めとなった。彼女が役者の尾上梅之助を褒めると、「梅之助なんか厭だい」と「私」は反発するが、子供ながらに嫉妬しているのが分かる。彼女がいつも「私」を膝に乗せているため、周囲は「お鶴さんは坊ちゃんに惚れてるよ」と冷やかすほどだった。
 「私」は以前に滝夜叉姫の錦絵に魅せられたことがあった。滝夜叉姫とは平将門の娘とされる伝説上の妖術使いのこと。お鶴が祭りのときに踊屋台に上ったという話を聞き、「私」は「滝夜叉かい」と尋ねる。なぜかと問い返すお鶴に、「私」は「だって滝夜叉が一番いいんだもの」と答える。そうすると彼女はまた嬉しそうに頰ずりをするのだった。
 しかし、この粋な娘とは突然の別れが訪れる。彼女が芸者として売られることになったからである。自分が売られていくのを出世のように嬉しそうに語るお鶴を見ながら、「私」は悲しみを禁じ得ない。「私を忘れちゃ厭だよ、きっと偉い人になって遊びに来ておくれ」と語ったあと、「私」の頰を強く吸うなり、「あばよ」の言葉を残して彼女は「私」の目の前から立ち去った。このとき以来、一日も早く大人になって芸者となったお鶴と会って遊びたいと思いながらも、月日は流れ過ぎていったのである。20歳となった今、彼女がどこで何をしているか知る由もない。「私」は懐かしく昔を回想している。
 山の手の屋敷に生まれ育った幼い「私」にとって、崖下へ降りていくことはそれ自体が禁忌を冒すことに他ならなかった。だが、これが「私」にとって下町を体験するという貴重なひとときだったのである。そしてお鶴との出会いと別れは、初恋にも似た甘酸っぱくもほろ苦いものであった。