谷崎潤一郎 『秘密』 2021年12月
「秘密」というタイトルは極めて示唆的である。秘密は秘密である限りにおいてのみ刺激的でかつ魅力的だが、それがいったん暴かれてしまうと一気に色褪せる。
この作品には二つの秘密がある。
一つは作品の前半、「私」が懶惰な生活に耐えられなくなり、女装をして夜の街に繰り出す場面。もう一つは、2、3年前上海へ向かう船の中で名乗り合わぬまま関わりを持った女と活動写真館(映画館)で偶然再会したことをきっかけに、「私」が目隠しをされたまま場所も分からぬところで女と逢瀬を重ねる場面である。
「私」は最初、隠遁の場所を十二階(浅草にあった有名な凌雲閣)下、貧民窟の片側にある真言宗の寺の一室に求めて、ひたすら「奇怪な説話と挿絵に富んでいる書物」を濫読する一方、住職が秘していた地獄絵図などをはじめとする古い仏画を所かまわずぶら下げて楽しんでいたが、それでは飽き足りずに化粧を始めやがて女装するに及び、今度は外へ出てみたいという誘惑に駆られる。そして実際に外へ出ても自分が男と気づかれないため、しだいに行動が大胆になっていったのは自然な流れであった。目深な高祖頭巾をかぶって三友館の貴賓席に座り、それが人々の注意を惹いたことを得意がる気分も生まれた。
その「私」に気づいた女性がいた。以前に船で馴染みになり、その後「私」が欺いて振り捨てた過去のあるT女であった。小太りだった彼女は神々しいまでに痩せ、そこには「権威」さえ伺わせた。恋慕の情に駆られた「私」は、明日もここで会うことを提案する走り書きを彼女の袂に投げ込む。すると彼女からの返事がやがてもたらされた。彼女からは、9時から9時半までの間に雷門まで来てほしい。そこにお迎えの車夫が行くからそれで拙宅まで案内しよう。お互いの住所を隠すため車上の君には目隠しをすることを許してほしい旨のことが書かれていた。このようにして迷路をたどるような体験をしながら二人の逢瀬が続くが、あるとき「私」は女に途中一度だけ目隠しを外して欲しいと要求し、抗しきれなくなった彼女は短時間だけそれに応じる。覆いを外された「私」の目にはその街がどこか見当がつかない。ただ一瞬だけ目に入った精美堂の文字がやがて女の住む場所を突き止めるヒントとなった。そしてようやく見つけた場所では、女の「死人のような顔」が「私」を見下ろしていたのである。
「私」は彼女が芳野という名の後家であることを知る。すべての秘密が明かされた今、「私」の興味が一気に消え失せてしまったのは致し方ない。「秘密」という「手ぬるい快感」に満足しきれなくなった「私」は「もッと色彩の濃い、血だらけな歓楽」を求めるようになるのである。