三島由紀夫 『仮面の告白』 2006年5月
『仮面の告白』が三島由紀夫によって起稿されたのは、太宰治が亡くなって半年も経過していない頃であった。三島の太宰嫌いはつとに有名だが、『仮面の告白』は太宰の代表作『人間失格』との共通点があまりにも多い。両者はともに周囲からの隔絶感に悩み、なんとか自己を打ち立てようとする主人公が描かれている。三島の中には太宰に対する近親憎悪的な感情が渦巻いていた。『仮面の告白』は言ってみれば三島版の『人間失格』である。
「私」は生後まもなくして、溺愛する祖母のもとで育てられる。母親とのつながりを断たれたところに彼の幼児体験の特異性がある。遊び相手が女の子と限定されたことが、逆に同性たる男性に惹かれる性向を生み出したのかもしれない。しかし、そのことは他人には秘められる必要がある。そのため「私」は普通の<男>を演じることを余儀なくされる。『仮面の告白』という逆説的なタイトルが生まれる所以がここにある。
その「私」が唯一こだわった女性が一人いた。それが友人の妹園子である。
「私」が彼女に初めて出会ったとき、その美しさに感動しながらも悔恨を覚えたという告白は極めて象徴的だ。このとき、「私」は自分が彼女の前で本当の男としては向き合えない宿命を咄嗟の内に感じ取ってしまったのである。「私」が演じたのは彼女を恋する<男>の役。その演技には彼なりの必死な思いが込められていた。
一方、園子は「私」のそのような思いを知る由もない。彼女はごく普通の女性として「私」を恋し、ラブレターも書く。しかし、それを受け取った「私」は嫉妬に駆られる。なぜなら、彼女が思いを寄せているのは実際の「私」ではなく、偽装された「私」だったからである。「私」は生身の「私」と理想化された「私」との間で呻吟していた。
結局この二人は結ばれることはない。一度縁談をほのめかされながらも、「私」がそれをうべなうことがなかったからである。だが、なぜ二人が結ばれなかったのか、別の男性と結婚した今でも、彼女はその疑問を抱きつつ生活している。もはや人妻となった彼女となおも逢い引きを重ねようとする「私」の行為にはただならぬものが感じられる。そこには、自分は本当に女性を(むしろ園子だけでも、と言うべきであろうか)愛することができないのか、という自らの存在そのものに対する根本的問いかけが込められていたのだ。
逢い引きをすることに良心の呵責を感じて「怖い」と漏らす園子と、彼女に向き合いながらも近くにいる若い男性に目を奪われてしまう「私」との隔たりはあまりにも大きい。