(16)『五勺の酒』

中野重治 『五勺の酒』   2006年8月

小田島 本有    

   昭和22年に発表された『五勺の酒』は、中野重治という作家を考えるうえで貴重な作品と言えよう。
 主人公「僕」は中学校校長。酒に酔った状態の中で、最近の風潮に対して批判をするというスタイルがとられている。ほろ酔いの中で愚痴を言っているという感じだ。
 「僕」の批判の矛先は共産党へ向けられる。天皇制が天皇という個人を犠牲にして成り立っていることを意に介さない彼らの批判の仕方に「僕」は苛立ちを隠しきれない。すべてをレッテル貼りの次元で解決し、それ以上は洞察しようとしない共産党の姿勢に「僕」は違和感を覚えるのである。「僕」は「中学生が賢くなった」とも述べる。これも決して褒め言葉ではない。大人たちの行動を表面的に模倣する彼らに「僕」はやりきれなさを感じている。ブームとして民主主義的な雰囲気を謳歌しようとする気分、さらにはそれに便乗しようとする軽薄な人々に対して「僕」は感覚的な疎外感を感じているのだ。
 敗戦は共産党にとって、解放であった。治安維持法がなくなり、思想犯は釈放された。しかし、これで本当の「自由」が獲得できたわけではない。我々はついつい束縛状態から解放されたことを「自由」と思いがちだが、真の「自由」は絶えず自由を求め続ける行為そのものの中にある。
 虐殺された人をかつぐ一方で、「メカケ」を蔑視する。その蔑視は天皇個人への蔑視と表裏の関係にある。彼らは既成の「天皇」「メカケ」のイメージだけで論じるだけであり、ここからは本質的な批判は望めそうもない。「僕」の苛立ちは単に共産党だけの問題ではなく、組織における人間の在り方そのものが問いかけられていると言ってよいだろう。
 この作品が書かれたとき、中野は共産党員であった。党を絶対視するのではなく、批判すべきところはしっかり批判できなければ閉塞状態に陥ることは目に見えている。外部から批判をするのではなく、その内部にあってこの組織が抱えている危うさを浮き彫りにしたいという思いが彼には強くあった。
 教育勅語の廃止、そして教科書の墨塗りに象徴されるように、敗戦後の我が国の教育現場は大きな転換を余儀なくされた。価値観が180度転換する中で、生徒のみならず教師もその荒波に揉まれ、動揺せざるをえなかったのである。「僕」はそのような教育現場の人間として、率直な感想を述べている。
 『村の家』で転向小説を書き、その中で挫折感に打ちひしがれ意気消沈するのではなく、いかなる状況にあっても次なる目標を見据えている主人公の姿を描いた作者は、実生活においても明晰な実行者だったと言えよう。