川端康成 『雪国』 2006年7月
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」この一文で『雪国』は書き始められている。
この冒頭は極めて象徴的だ。このトンネルを境として島村は「日常」から「非日常」の世界へと運ばれていく。彼の東京での日常生活を我々読者はほとんど窺い知ることができない。ただ、時折文筆をしていることは分かるのだが、親譲りの財産もあり、「無為徒食」の男として彼は設定されている。その彼にとって、トンネルの向こうの雪国で駒子と年に一度会うことは、ある意味で癒しの効果があったのだろう。
彼は当初から駒子にある種の清潔感を感じている。それが「いい友達でいよう」という島村の言葉を誘発させた。しかし、この言葉が逆に足枷(あしかせ)となって駒子は懊悩する。そしてその一線を越えたとき、駒子にとって島村は愛しい対象となった。たまにしか訪れない島村を待ち受ける彼女の態度には初々しささえ感じられる。しかし、それに応える島村はあらゆるものに「徒労」を感じる男であり、また責任を自ら引き受けない人間であった。それでいながら、再会した駒子に、「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」と人差し指だけ伸ばした左手の握り拳を目の前に突きつける男でもある。島村のそのようないい加減さが却って駒子の純粋さを際立たせる役割を果たしてもいる。
噂では、駒子は師匠の息子である行男と婚約していたという。それは行男への愛情からというよりも、二人の結婚を期待する師匠とのしがらみによるものだったらしい。行男が東京で長患いをしたため、駒子は芸者に出て病院の金を送った、と周囲では取り沙汰されている。
作品の冒頭、列車の中で島村が目にしたのは、病の進行した行男とそれを介護する葉子の姿であった。島村は、葉子の真剣な眼差しに心惹かれる。葉子がなぜ行男の面倒を献身的に見ているのか、作品を読む限りよく分からない。行男が危篤状態に陥ったとき駒子を呼びに来た葉子を、駒子は追い返そうとする。彼女は島村の前で行男と許婚(いいなずけ)であったという噂も否定する。更に、行男の死後も墓参りを彼女はしようとしない。駒子はある覚悟をもって、過去と訣別しようとしているのである。
駒子と葉子との間にも、愛憎入り乱れた確執が横たわってもいる。その真相はよく分からない。いずれにせよ、それは彼女たちがそれぞれ今を真剣に生きようとするためであるようだ。この二人の女性に心惹かれる島村は、いわば責任のない立場で二人を眺めているに過ぎない。その曖昧な自分の姿を突きつけられるのが、作品結末の火事の場面である。
上から落ちてきたのは葉子だった。「この子、気がちがうわ。気がちがうわ。」と叫ぶ駒子。彼女に近づこうとして島村は葉子を駒子から抱き取ろうとする男たちに押されてよろめく。肝心のときに彼女を助けることもできない、傍観者でしかありえなかった島村の姿がここでは象徴的に描かれている。