石川淳 『焼跡のイエス』 2006年9月
終戦直後、混乱期の上野のガード下を舞台にして、生きるために盗み行為をする少年の姿に一瞬イエス・キリストの面影を「わたし」が垣間見る物語、それが石川淳の『焼跡のイエス』である。
時は昭和21年7月の晦日(みそか)。終戦からほぼ一年が経過しようとしている。街頭ではさまざまな商いが行われ、市場閉鎖の官のおふれがたびたび出されるものの、それは何ら効力を持たない。
そのような中、白米のおにぎりを売る若い女を「わたし」は目にする。「わたし」が惹きつけられたのはおにぎりではなく、その肉感的な雰囲気を発散させている女そのものであった。そこに現われるのが不潔さと悪臭を漂わせた一人の少年である。彼はそこにあったおにぎりに食いついたばかりでなく、その女の足のうえに抱きついた。それを振りほどこうとする女と、なかなか離れようとしない少年は揉み合ったまま、「わたし」の方へぶつかってきた。
そのとき、「わたし」が瞬時の判断で汚れた少年ではなく、女の方に抱きついたのは無理もなかったと言ってよい。ただ、このとき女に「わたし」が睨まれたのは、ほんの一瞬でも「わたし」の脳裏をかすめた甘美な思いを彼女が察知したからであろう。
この少年はあとで「わたし」の抱えた風呂敷包みをも奪おうとして襲い掛かってくる。そのとき「わたし」が彼の中に見出したのは苦患(くげん)にみちたナザレのイエスの生きた顔であった。「わたし」からコッペパンと財布を盗んだ少年だが、その行為そのものが彼にとってやむにやまれぬ行為であったと「わたし」は解釈しているのである。 この少年は当時の世の中のカオス(混沌)そのものを体現する象徴的な人物であった。「わたし」が彼にイエスを見たのも、そのような時代背景があったからである。
その翌日、市場は完全に閉鎖された。はじめて官のおふれが効力を発したのである。そのことは世の中が秩序を持ち始めたということであり、それはとりもなおさずカオスとしての少年も今後は現われないということを意味していた。「わたし」に残ったのは、少年が噛みついた手足の傷だけである。「わたし」にはあのとき垣間見たイエスの姿そのものが「夢の中の異象」としてだけ記憶されている。
8月1日を境として、上野のガード下にも秩序がもたらされた。戦後日本の復興はこれから本格的に始まろうとしている。