(18)『白痴』

坂口安吾 『白痴』  2006年10月

小田島 本有    

   坂口安吾は戦後まもなく「堕落論」という注目すべき評論を発表している。人間は堕ちるところまで堕ちていかないと真の現実の姿を捉えることはできないし、そこからしか人間の本当の意味での再生はありえない。安易なヒューマニズムや民主主義万歳の浮薄な風潮に対して明確な一線を画そうとするこの姿勢は、ある意味において安吾の本質を如実に表していると言えよう。
 『白痴』は安吾にとって、いわば「堕落論」の小説版であった。
 27歳の文化映画演出家であった伊沢は、その住む環境からして性的放縦のただ中にいる。彼と同じ家を借りている娘は町会長と仕立屋を除いた他の町会役員(10数人)と公平に関係を結び、そのうちの一人の子供を宿していたし、近所では兄妹が夫婦関係を結んでしまったにもかかわらず、その母親はその事実を黙認していた。やがて兄のほうに女ができ、妹の方を片付けなければならないと画策していく中で当の妹が自殺する、といった具合だ。そのような環境の中で生活する伊沢自身、この戦時下において自らの仕事に生き甲斐を見出せていない。
 その彼の部屋に、隣人の女房が突然転がり込む。彼女は美しい顔立ちながら、白痴だった。周囲の者に知られたら何を言われるか分からない中、彼はこの女を匿うことになる。会話がなかなか成立しない二人にあって、唯一関わり合えるのは身体の関係だけであった。
 空襲に襲われ、群集から離れて逃げ延びようとするとき、彼は女の手を力いっぱい握ってひっぱり、「死ぬ時は、こうして、二人一緒だよ。(略)この道をただまっすぐ見つめて、俺の肩にすがりついてくるがいい。分ったね」と言う。頷くその姿は、「女が表わした始めての意志」であり「ただ一度の答え」であった。そのいじらしさに伊沢は逆上しそうになる。
 しかし、その感情も長くは続かない。逃げ延びて眠りこけている女の鼾声は豚の鳴き声に似ているように彼には感じられる。彼の目の前にあるのはただ肉の行為に耽るだけの肉塊にしかすぎない。女の寝ているうちに立ち去ろうかとも彼は思う。しかし、今の彼にはこの女を捨てる張り合いも潔癖もない。かといって愛情があるわけでもない。女を捨ててみても明日の希望があるわけでもなく、やがて米軍が上陸してあらゆる破壊が行われるだろう。考えることすらが彼には億劫だったのだ。
 伊沢が辿り着いた境地、それは決して深遠なものではない。自分に取り憑いた運命は決して逃れられるものではなく、これを引き受けていくしかないということ。行くところまで行かねばならない。これはあきらめなのか、それとも決意なのだろうか。