(21)『裸の王様』

開高健  『裸の王様』   2007年1月

小田島 本有    

  『裸の王様』は一見すると、継母に厳しく育てられるあまり個性を抹殺されていた子供が、画塾の先生である「ぼく」との出会いによって心を解放し、生き生きとした絵を描けるようになる経緯を語った物語と捉えることができる。そこには現代の教育に対する批判意識も込められていると言うことは可能だろう。また、太郎の父親である大田氏をはじめとする大人たちは結局のところ子供の心を理解しようとはせず、彼らが催した絵画コンクールも利己的な意味合いが非常に強かった。
 しかし、このような言い方は語り手である「ぼく」の立場に沿ったものであり、ある種の偏向を免れていない。確かに「ぼく」は若い大田夫人が後妻であり、周囲から後ろ指をさされることのないよう太郎をしっかりしつけるべく、彼女なりに必死であったことを見抜いていた。その一方で太郎の抑圧された心を察知し、生き生きとした絵を描けるようにした「ぼく」の功績は確かに評価に値する。
 アンデルセンの童話を「王様」や「宮殿」といった装飾物を抜き去って「ぼく」が語ったところ、太郎が描いたのはフンドシ姿の大名の絵だった。ある意味でこれは物語の本質、 すなわち権力者の虚栄と愚劣を暴いている。これを大田氏の息子の作品とも知らず、「農村か漁村の子だろう……」「アンデルセンほど国際的な作家をこんな地方主義で理解させるなんて」としか言えない審査員の一人山口の言葉はあまりにも虚しい。山口はアンデルセンを知識として知っているかどうかを絵画の評価基準にしていたに過ぎないのである。したがって裸の王様の絵は評価するものの、フンドシ姿の大名の絵は彼にとって取るに値しない。コンクールにおける審査のあり方そのものがここで問われているのだ。
 『裸の王様』を読んで気づかされるのは、「ぼく」の哄笑で作品が閉じられていることだ。「ぼく」は大田氏や山口をはじめ主催者や審査員たちの俗物性を暴き、溜飲を下げたに違いない。当惑する彼らを目の当たりにして「ぼく」が心の中で快哉(かいさい)を叫んだであろうことは容易に頷ける。しかし、見方を変えれば「ぼく」はこのことのために太郎の絵を利用したと言えるのではないか。自分は太郎の側にいるという思いがあのような行動を生み出したとすれば、それは思い違いも甚だしい。「ぼく」はコンクールに絵を出してほしいと太郎に頼まれたわけでもない。彼の与り知らないところで動いているに過ぎないのである。
 タイトルの「裸の王様」は、コンクールの題材であると共に、大田氏や山口、さらには結末で哄笑する「ぼく」自身をも表している。ここに作者の批評意識を読むべきなのではないか。