(20)『海と毒薬』

遠藤周作 『海と毒薬』  2006年12月

小田島 本有    

  だれもが死んでいく中で、俺がたった一つ死なすまいとしたものがあの「おばはん」だったのだ、と勝呂が回想する場面がある。彼にとってはじめての患者であり、彼女に何かと世話をやくことが、当時の彼にとって自分を支える唯一の拠り所だったのかもしれない。
 その彼も、米軍捕虜生体解剖の場に立ち会ってしまった。彼が他の登場人物たちと比べ、人間的感情を持ち合わせていること、解剖の場では動転してしまって何の役にも立たなかったことをいくら弁明したとしても、彼がその事件の当事者であるという事実の前ではそれらは何の慰めにもならないのである。戸田が言うように、勝呂は断ろうと思えば断れる機会がいくらでもあった。しかし、それができず流されてしまったところに、この人物を造型した作者の意図を読むべきだろう。勝呂は決して特別な人間ではない。我々と全く変わりのない、ごく普通の人間なのである。
 では、他の人々は特別な人間だったのだろうか。
 おやじさんこと、橋本教授は次期医学部長と目されている人物だった。しかし、その彼は部長の親類である田部夫人の手術を執刀し、そこで彼女を死なせてしまう。それは比較的安全な手術であった。失態を演じてしまった彼にとって、軍からの依頼を受け入れることは何とか医学部内での自らの立場を守るためには必要だったのである。彼には博愛精神そのもの(それは時には押し付けがましさもあったが)とも言うべきヒルダ夫人がいた。彼女は夫のそのような行為を知る由もない。その皮肉な構図がこの作品では浮き彫りにされる。
 戸田にしても、幼い頃から優等生であり続け、大人の気に入るにはどうすべきかを本能的に熟知していた。彼にはまず、他人の目ありきであり、自己そのものは空虚であったと言わざるを得ない。彼は、自分に果たして良心の呵責があるかと絶えず問い続けている。戦争の中、次から次へと人が亡くなっていく。彼はそれを仕方のないことと受け止め、どうせ戦争で失われる命であるなら、やがて死ぬべき患者を後世のために役立てる方がはるかにいいと考える人間である。確かに彼の考え方はある意味で正しいのであろう。しかし、彼は何に対しても無感覚になっていく自分に底知れぬ恐怖をひそかに感じていたのではないか。だとすれば、彼にとってこの生体解剖実験に立ち会うことは、自分に良心が不在かどうかを検証する機会だったのかもしれない。
 第三者から見れば狂気にしか思われない事件の当事者の内面に奥深く入り込み、遠藤はその内実を浮き彫りにしていった。そこに描かれる人々は決して我々とかけ離れた人間ではない。彼の人間洞察はその後も『沈黙』『侍』『深い河』といった作品の中で展開されて行く。