(46)『真珠夫人』

菊池 寛 『真珠夫人』 2009年2月

小田島 本有    

  『真珠夫人』においてヒロインとも言うべき荘田瑠璃子(旧姓・唐沢)は若き未亡人として、豪邸に男たちを集めて妖婦ぶりを発揮している。だが、一見華やかなこの生活に誰よりも飽き足りないものを感じていたのは他ならぬ彼女自身であった。「妾(わたし)は戯恋(フラート)することには倦(あ)き倦きしましたのよ」彼女は渥美信一郎にあてた手紙の中でこう述べる。これはただ単に相手を誘惑するための方便とは言い切れない。二年前に恋人杉野直也との別れを余儀なくされ、いわば復讐のため、親子ほども歳の離れた荘田勝平のもとに嫁いできた彼女は、心の奥底で本当の愛を実は求めていたのではないか。
 復讐の対象であったはずの勝平は嵐の中、瑠璃子を守ろうとする知的障害者の息子勝彦に襲撃され命を落とす。こうして彼女に残されたのは勝平と先妻との間に生まれた二人の子供(勝彦と美奈子)、それに莫大な財産だった。本来の復讐相手を失った彼女は、その後男たちへとその対象を広げていく。彼女には彼らを魅了してやまない美貌と知性、上品さがあった。事実、多くの男たちは彼女の虜となる。その中で彼女はいつしか男たちを翻弄する面白さそのものへと惑溺していったのかもしれない。
 彼女は娘となった美奈子を実の子のように可愛がっていた。彼女は外に対しては〈妖婦〉であったが、内にあっては〈優しき母〉に徹したのである。それだけに自分が翻弄した青木稔に対して美奈子が淡い慕情を抱いていたことを知ったときの衝撃は大きかった。男たちに対する意地と反発で行っていたことが、結局のところ一番愛している娘を傷つけていたという皮肉に彼女は向き合わざるを得なかったのである。
 もともと彼女が美奈子と共に箱根へ向かう際、稔を伴ったのも、彼に対する特別な思いがあったわけではない。兄の青木淳が瑠璃子に翻弄され、最期に彼女を呪って死んでいったことを知る渥美信一郎から、弟には同じ轍を踏ませないでほしいと頼まれたことに彼女が反発したためである。この信一郎は弟の稔にも直接忠告をするが、そのとき既に稔は失恋をした直後であり、その言葉は火に油を注ぐ結果にしかならなかった。その点で渥美信一郎は作品の要所要所において重要な役割を果たしていると言えよう。
 稔は瑠璃子を刺殺し、自らも入水自殺を図る。瑠璃子の死はいわば自らが招いたものだった。彼女の死後、その肌襦袢にしっかりと杉野直也の写真が縫い付けられてあったことが分かる。世間的には〈妖婦〉と見られながらも操を守り通し、心に「真珠」のごとき心を抱いていた瑠璃子。その麗しき姿は、家を飛び出して画家となった彼女の兄唐沢光一の描いた力作『真珠夫人』という肖像画の中に永遠に納められたのである。