(56)『沈黙』

遠藤 周作 『沈黙』 2009年12月

小田島 本有    

 母親の影響で11歳の時に受洗を余儀なくされ、その後生涯にわたって自らにとっての「神」のあり方を問い続けたのが遠藤周作だった。その彼が全身全霊を賭けて発表したのが『沈黙』である。日本にやってきた司祭が踏絵を踏むという行為を描いたこの作品は大きな反響を呼び、西欧のキリスト教関係者からは屈辱的作品として激しい批判を浴びた。
 司祭ロドリゴは、自分が敬愛していたフェレイラが日本で棄教したとの報告を受ける。彼がガルペと共に日本への渡航を思い立ったのは、この地にキリスト教を根づかせたいという思いがあったのは勿論だが、その一方でフェレイラに関する情報を何とか得たいという願望も込められていたからである。
 作品にはキチジローという日本人が登場する。狡そうな眼、卑屈な笑いのキチジローに対しロドリゴは出会った当初から好意を抱いていない。結局キチジローは銀300枚でロドリゴを日本の役人に売った。このことから、ロドリゴとキチジローとの関係がちょうどイエスとユダとのそれに対応しているのは見やすい。しかし、この作品で注目されるのは、ロドリゴを裏切ったはずのキチジローがいつまでもロドリゴの後を追いかけ、彼にゆるしを請い続けていることである。自分は殉教する覚悟もない、実に弱い人間であることを訴えるキチジローの言葉はロドリゴの心を捉えて放さない。
 ロドリゴにとって、殉教は輝かしいことですらあった。しかし、自分が信念を曲げないことで日本人の信徒が次々と穴吊りにされていく現実を知り、彼の信念は揺らぎ始める。
 再会したフェレイラはロドリゴに踏絵を促す。教会の宣教師たちはおまえを糾弾するだろう。しかし、おまえがこれからするのは一番つらい愛の行為である、とフェレイラは語る。近くにいた通辞(通訳)が踏絵を「形だけのことだ」と囁いていたのとは実に対照的だ。踏絵に足をかけようとするとき、ロドリゴは痛みを覚えるとともに、「踏むがいい」という銅版の「あの人」の声を聞いた。
 実際に「あの人」が言葉を発したのかどうかは分からない。しかし、大切なのはこのときロドリゴがすべての人の罪や悲しみを引き受けてくれる「あの人」の存在を実感できたということである。彼は踏絵を行ったことで「転びのポウロ」と呼ばれるようになった。しかし、彼がその後も「私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ」と自負できるのは、人には決して語りえない、このときの体験があるからに他ならない。