堀 辰雄 『風立ちぬ』 2010年1月
婚約者の矢野綾子が肺結核で病没したのは昭和10年のこと。このときの体験をもとに執筆されたのが『風立ちぬ』である。
作品の冒頭、一陣の風が起こってカンヴァスが倒れる場面がある。それを元に戻そうと立ち上がりかけた節子を、「私」は無理に引き留めた。そのとき「私」の口を衝いて出たのは「風立ちぬ、いざ生きめやも」という詩句である。この場面は作品全体を予兆する意味をもっていたと言えよう。
二人はその後婚約するも節子がやがて肺結核となり、二人のサナトリウム生活が始まる。同行する際に「私」は、「こうしてお前と一緒にならない前から、どこかの淋しい山の中へ、お前みたいな可哀らしい娘と二人きりの生活をしに行くことを夢みていたことがあったのだ」などと言っていた。ともすれば現実と夢を混同しかねない「私」を浮き彫りにするエピソードである。
「私」は小説家であった。「仕事をなさらなければいけないわ」という彼女の言葉に励まされ、「私」は「お前のことを小説に書こうと思う」と述べる。「皆がもう行き止まりだと思っているところから始っているようなこの生の愉しさ」を描きたいというのが「私」の願いだった。彼女は「私のことならどうでもお好きなようにお書きなさいな」と「私」を「軽く遇(あしら)うように」言う。その次の一文が重い。「私はしかし、その言葉を率直に受取った。」
彼女は「私」の小説家ゆえの性(さが)を知っていた。病み衰えていく自分がその題材となることも彼女は宿命として受け取ったのである。ただ、彼女が一方的な犠牲者であったとばかりは言えない。迫り来る死の予感の中で、彼女は「私」の夢に応えることで生の充実感を得ようともしていたからだ。それだけに、「私」が「いまのような生活がおれの気まぐれなのじゃないかと思ったんだ。」と言ったとき、彼女は「そんなことを言っちゃ厭」と抵抗するのである。それは彼女の不安の吐露に他ならなかった。
最終章は「死のかげの谷」と題されている。節子亡き後、「私」は3年半ぶりに村を訪れる。註文してあったリルケの「レクイエム」が届けられ、「私」はそれを繙く。節子を静かに死なせることをせず、絶えず求め続けていたことに後悔の思いすら抱いていた「私」だが、「死者にもたんと仕事はある。けれども私に助力はしておくれ」との言葉に胸を締めつけられるのだ。新しく生き始める予感を漂わせて作品は閉じられる。
愛する者との別れは、我々が人間である以上避けられない。要は我々がそれらの事実とどう向き合い、乗り越えていけるかなのだ。