(151)『半日』

森鷗外 『半日』  2017年11月

小田島 本有    

  『半日』は、孝明天皇祭である1月30日の午前7時、台所から下女が朝食の準備をする「ことこと」の音が聞こえてくる時間から、昼食の準備の「ことこと」が聞こえてくるまでの半日を描いた作品である。
 森鷗外が嫁姑の問題に苦労したという話はよく知られており、それがモデルになっているというのが定説である。この作品では姑である「母君」は最初に「おや、まだ湯は湧かないのかねえ」という「鋭い声」を発するのみで、自身が登場することはない。その声を「まあ、何といふ声だらう。いつでもあの声で玉が目を醒ましてしまふ」と「癇走つてゐる」大声で非難するのが「奥さん」である。この作品は文科大学教授文学博士高山峻蔵とその妻「奥さん」の会話で構成されている。
 姑を毛嫌いする「奥さん」の態度は徹底している。「此家に来たのは、あなたの妻になりに来たので、あの人の子になりに来たのではない」と豪語する「奥さん」は姑をいつも「あの人」と呼ぶ。この言葉だけを聞くと極めて近代的にも思われようが、姑と一緒にいることに我慢できない彼女は皆の食事が終わってから別間で摂るほどで、決して「母君」と同席しようとしない。子供の「玉ちやん」が病気で夜中に泣いたときに「母君が夫婦の寝床を覗いた」といって「焼餅やき」「気味が悪い」とまで言う。
 そして、「母君」が家計を担当することにも「奥さん」は納得しない。「奥さん」は自分に家計を任せてほしいわけではない。彼女はそもそもそのようなことは苦手だ。「あなたの月給でせう」と「奥さん」は言う。仮に夫が亡くなった場合、いったい月給がいくらであり、財産がどのくらいあるのか彼女は分からない。その不安は多少なりとも理解できる。
 「母君」は「奥さん」が挨拶をしないことが腹立たしく、そんな彼女に頭を下げたくはない。息子から見ても節倹という点では「母君」のほうが上手だ。「奥さん」は大審院長の娘であり、我儘に育てられた。結婚する際、紀尾井町に住むこの父親に「嫌だと思つたなら、いつでも帰つて来い」と言われている。彼女の口癖は「わたしは玉ちやんを連れて往つてよ」である。この日も「母君」の声に苛立った彼女はいつもの口癖を使った。また始まったと思いつつ、夫は孝明天皇祭への出席を取りやめる。「博士は何もこんな事で、御祭典に参内するのを止めないでも好いのである」との語り手の言葉は、夫に対して否定的だ。
 紀尾井町の「お父様」も娘が姑を徹底的に非難する態度のうちに嫉妬が介在することを看破していた。その一方で、「お前は精神が変になつてゐるのだ」と高山が言ったことを娘から聞いて反発したりもしている。
 いくら文学博士でもこの問題を解決する術は見つからない。『半日』はそれゆえに普遍性を勝ち得ていると言える。