(170)『明暗』

夏目漱石 『明暗』   2019年6月

小田島 本有    

  漱石の死によって中絶となった『明暗』は今でも多くの読者の興味を掻き立てる材料に事欠かない。『明暗』は結婚して半年を経過した津田由雄・延子(お延)夫妻を軸とした物語であるが、そこでは個性的な人物たちが議論を重ねる場面がしばしば見られ、そのことだけでもこの作品の特質を浮かび上がらせている。
 独身時代のお延には自負があった。彼女は叔父の岡本の家で育てられたがその叔父と対等に渡り合うことで叔父に可愛がられているという自覚があった。また、彼女は女は一目で男を見抜かなければならないという持論を従妹の継子に常日頃語っており、彼女が自分の意志で津田との結婚を決めたことは継子のお延に対する尊敬の念をより強くさせることにもなったのである。津田は見栄えもよかったため、継子からすればお延は理想の男性と理想的な恋愛結婚を文字通り実践した成功者だった。継子が自分の見合いの席にわざわざお延の同席を強く望んだのは、彼女の「千里眼」に期待したからである。
 だが、お延は実際に結婚してみて戸惑いを覚えている。津田は叔父とは全くタイプの異なる男性だった。とりわけ継子の羨望の眼差しを裏切ってはならない、というジレンマを彼女は抱えていた。彼女は夫に愛されたいという欲求が強く、それゆえ技巧も凝らす。ただ注意して見ると、彼女は相手に要求するばかりでそれでは自分はどう変わるのかの視点は欠落していたと言わざるを得ない。そもそも自分は本当に夫を愛しているのか、あるいは夫は愛するに足る男なのか、という疑問は浮かんでくることはないのである。
 一方の津田も一応のインテリではあるものの、自分の主体的な意志を持たず依存傾向がある。彼がお延と出会う以前に清子という恋人がいながら彼女に突然逃げられたばかりか、彼女が友人関と結婚したという事件はいまだに彼の心のしこりとして残っている。彼にはなぜ清子が自分の前から立ち去ったのか、その確たる理由が分からない。彼が吉川夫人に唆され、痔の手術後の療養という口実で流産後の静養でやはり清子が滞在している温泉場へ赴くことになったのも、彼の流されやすさ、さらに言えば責任感、倫理観の欠如が根底にあった。彼はただ吉川夫人の敷いたレールに乗ったに過ぎない。そこに彼のいい加減さもある。
 吉川夫人はなぜこのように津田を挑発したのか。そもそも夫人はかつては津田と清子の仲介者であり、その後津田とお延の仲介者の役割を果たしたという経緯がある。夫人はお延を願わしい妻にすべく教育すると公言していた。その点で夫人の企みは不気味ですらある。
 お延は傷つくのかもしれない。ただそのとき、はじめて「愛する」とはどういうことなのか、彼女は正面から向き合うことを余儀なくされるのである。