有島武郎『小さき者へ』 2019年5月
妻安子が肺結核のために亡くなった時、3人の男の子が残された。『小さき者へ』は有島を連想させる「私」が隣室で寝息を立てている子供たちに向けて発するメッセージ、という体裁をとっている。まだ「お前たち」は幼い。したがって「私」は将来の「お前たち」が読んでくれることを期待しつつ深夜筆を執っているのである。そこで一番多くの言葉が割かれているのは、今は亡き「お前たち」の「母上」の姿なのだ。
「私」は自分の妻が出産する際、物凄い力で「私」を羽交い締めにした場面を語っている。このようななか最初の男の子が生まれ、妻は「お前たち」の「母上」となった。
このように感動的な出産場面に立ち会い3人の親となった「私」だが、その一方で齷齪しながらもなかなか満足する仕事ができない自分にもどかしさを感じ、ある時は結婚を後悔し、「お前たち」を憎んだこともあった事実を告白している。自分が何者にもなりきれていないことに対する焦燥感が家族に対する八つ当たりとして現れていたのだろう。
その転機となったのが「母上」の発病だった。入院の際、「母上」が結核であることは「私」にだけ伝えられていた。見舞いに訪れた「お前たち」と「母上」が近づかないよう行動するため、周囲からも「私」は誤解を受けた。東京へ転地をし、一時は小康状態を保ったものの「母上」の病状は悪化。そしてとうとう「母上」は医者から病気のことを知らされることになる。そして「母上」は全快しない限り「お前たち」には会わない覚悟を決めたのだった。それから1年7カ月の間、「母上」はそれを貫徹した。「母上」は子供たちに残酷な姿を見せまいとし、「葬式の時は女中をお前たちにつけて楽しく一日を過さしてもらいたい」と遺書の中で書いている。その遺志を「私」は尊重した。そのことに対して周囲の非難があったのは言うまでもない。
この作品の中で「私」は何度か「お前たち」に対して「不幸なものたちよ」と呼びかけている。最初は暗いトーンで語り始められたこのメッセージは次第に熱を帯びてくる。初出産の時に「産は女の出陣だ。いい子を生むか死ぬか、そのどっちかだ」という覚悟をもって「死際の装い」をし、最期は「お前たち」に「残酷な死の姿」を見せまいとする態度を貫いた「母上」の姿を語ることで、「私」の気持ちが高揚していった。そこには「お前たち」に亡き「母上」の在りし日の姿を伝えることが親としての役割なのだという意識も当然あったと思われる。
『小さき者へ』は有島の息子たちに対する愛情が溢れ出た作品と言えよう。それだけにその5年後、彼が『婦人公論』の記者で人妻でもあった波多野秋子と心中し、その結果「お前たち」が置き去りにされたという事実にはやるせない思いを禁じ得ないのである。