(184)『今戸心中』

広津柳浪『今戸心中』  2020年8月

小田島 本有

 明治29年に発表された「今戸心中」は前年樋口一葉によって書かれた「にごりえ」との類似がしばしば指摘されている。いずれも遊女を題材にした狭斜小説で、入れあげるあまり身上をつぶした男が相手の遊女と心中する。ただ、「にごりえ」の場合、お力は源七を思っていたのに対し、「今戸心中」で吉里が思っていたのは平田であり、心中相手の善吉はその身代わりでしかなかった。
 平田は家庭の事情のため実家のある岡山へ帰らざるを得なくなった。父親が大きな損失を生じてしまったらしく、彼が結婚するというのもその辺が関係しているらしい。だが、この辺の事情を吉里に伝えたのは平田本人ではなく西宮であった。というのも、いざ平田が話そうとしても吉里が聞く耳を持たなかったからである。いざ別れの席でも、平田と吉里の間ではまともな会話はなされず、間に入った西宮が持て余す状態だった。
 その一方で、吉里に入れあげていたのが善吉である。それまで吉里は彼を冷たくあしらっていた。それでも善吉は足繁く通い続けたため奉公人を抱えていた古着店を潰し、妻を実家に帰してまでいる。そして有り金が乏しくなった彼は「今日限り」と覚悟していた。
 「今日限り」という言葉は吉里の胸を刺した。それまで平田がいたため彼女は善吉を粗末に扱っていた。だが、善吉が「憎むべき所のない男」であり、自分のために彼の人生が狂ってしまったことを思い知らされた彼女は善吉に対する態度を改める。吉里は善吉の有り金5円を押し戻し、それを小遣いとして使うようにさせた。彼女は彼をその後も通わせ続け、彼女は周囲の女たちから借金を重ねる。だが借金は返済されない。やがて善吉も登楼できなくなり、人目を忍んで吉里の室の窓の下を彼が訪れる様子が目撃された。
 吉里はあるとき、酔った状態で現れ、親しい関係にあった小萬に、これまで平田からもらった手紙の入った紙包みを手渡し、これを西宮を介して平田へ帰してほしいと依頼する。小萬は吉里の平田に対する過去の恋情を痛いほど知っていた。それだけに小萬にはこれが薄情過ぎるように思われた。小萬は返事をしない。部屋を出て行った吉里の行方が分からなくなったと知らされたのはこの後である。はっと思った小萬が紙包みを開いてみると、そこには平田、吉里それぞれの写真の表が重ね合わされ、裏には「心」の文字が大きく書かれてあった。そしてそこには死の「覚悟」を綴る手紙も添えられていた。
 翌日、今戸で吉里が着ていた半纏と「娼妓の用ゐる上草履と男物の麻草履」が発見される。そして女の死骸が見つかったのは吉里の失踪から1か月後。顔は腐乱して分からなかったが着物は吉里のものだったという。
 心中した相手である善吉のことについては何も語られていない。そのことは彼が吉里にとっていかなる意味を持っていたかを暗示しているかのようである。