(188)『うたかたの記』 

森鷗外『うたかたの記』  2020年12月

小田島 本有

 画工巨勢には忘れ難い思い出があった。6年前にミュンヘンを訪れた際、街角で菫を売る12、3歳の少女がいたが、通りかかった大きな犬に花を踏みしだかれたばかりか、ここで商いをしてはならぬと追い出されたのである。泣きながらその場を立ち去っていく少女を巨勢は追いかけ菫の代金を手渡した。そのときの少女の美しい姿は彼の脳裏に刻印され、彼女をモデルにした絵を描きたいと考えていたのである。
 その彼がミュンヘンのカフェで偶然彼女と再会した。若い芸術家たちの集まりに連れて行かれた彼は忘れ難い思い出を語ったが、その中にいた当人が「われはその菫花うりなり」と名乗ったのである。マリイは絵のモデルをしていたが、決して裸にはならない。そしてその奇矯な振る舞いから狂女と思われている。だが、これはそれまで苦渋の人生を強いられてきた彼女がわが身を守るための仮の姿だった。
 マリイの父親はスタインバハといい、国王ルウドヰヒ2世に愛される著名な画工だった。だが王宮で開かれた夜会に同席した彼の妻に王は横恋慕する。逃げる妻を守るべくスタインウェイバハは王の前に立ち塞がり打擲された。その後の新聞で王は狂人となりスタインベルヒ城に移り住んだことが報道される。
 やがて両親は相次いで亡くなった。マリイはある裁縫師のもとに引き取られる。この裁縫師は娘二人に売春させていたが、マリイにも同じことをさせようとした。危うく難を逃れたマリイは湖畔に住む漁師夫婦に助けられたのである。
 マリイから過去の経緯を聞かされた巨勢は彼女に誘われスタインベルヒに向かう。世話になった漁師夫婦の家の近くまで来たとき、彼女は湖で舟に乗ろうと提案した。そして漕ぎ出したとき、そこで偶然国王と出くわす。王は彼女を見つけるなり「マリイ」と叫んだ。彼女の母も名前はマリイであり、母子の容貌は似ていた。マリイは思わず気を失い、湖に落ちる。このとき、彼女は蘆間隠れの杙(くい)に強く胸を打ちつけてもいた。そして王も彼女に引き込まれるようにして湖に入っていき、お付きの翁と揉み合うことになる。
 マリイは引き揚げられ、漁師夫婦の家で介抱されたものの命を落とす。やがて王も湖水で溺死したことが知られた。
 3日後、画家仲間のエキステルがもしやと思って巨勢のアトリエを訪れたとき、痩せ衰え変わり果てた姿で「ロオレライ」の絵の下で跪く巨勢の姿があった。この絵の中に彼は美しき少女マリイの姿を描き入れようとしていたはずである。
果たして絵は完成したのかどうか、研究者の間でも議論がある。鷗外は留学中に国王が湖水で水死体となって発見されたという事件に遭遇した。その死因が明らかでないなか、これを膨らませて書かれたのが『うたかたの記』だったのである。