(191)『一夜』

島崎藤村『一夜』  2021年3月

小田島 本有

 22歳ではあるものの知的障害を抱えたお仙の行方が分からなくなり、家族たちが捜し回る様子を描いた作品が『一夜』という短編である。ここで登場する三吉叔父は作者藤村がモデルであり、他の登場人物たちも後に書かれる自伝的長編小説『家』と重なる。
 お仙がいなくなった。三吉叔父が「お仙さんはまだ帰りませんか」と家にやってくる場面から作品は始まる。甥正太の細君は三吉の息子とお仙を伴って買い物に出かけた。その際ほんのちょっとした隙にお仙の姿が見えなくなったという。
 三吉は当初いずれ帰ってくるだろうと呑気に構えていた。ところがあまりにお仙の帰りが遅いので不安になる。なぜなら、彼女はあまりにも「無邪気」で「二十二までも人形のように育てられて、殆んど何らの抵抗力もない、可憐な娘」だったからである。田舎から出てきた彼女が大都会の真ん中に置き去りにされているという状況は家族を困惑させるに十分であった。彼女は家の住所も覚えていないし、そもそもお金も持っていない。
 このため三吉は母親にも頼まれ、この日はこちらに泊まることになった。そのためいったん息子をわが家に連れて帰り、再び甥の家に戻ることになったが、電車の中で三吉は半鐘が激しく鳴り響く音を耳にする。窓からそちらを眺めると火事は甥が住む町の方角であり、三吉は仰天する。電車から降りてみると、路地や往来は人で埋まっている。火事は正太の家から半町ほどしか離れていなかったが、延焼する心配はないらしい。
 夜が更けて何の手がかりも得られない中、母親(三吉の姉)は「どんなことがあろうとも、私はもう絶念(あきら)めていますよ」と弱音を吐く始末。午前一時を過ぎて三吉と正太は再び捜しに出かけた。途中交番にも寄って事情を話したが、その効果もあってか、やがてお仙が警察の手で救われ、帰宅したという情報がもたらされる。
 まかり間違えればとんでもないことになりかねなかった。事実彼女は暗いなか不審な男に声をかけられているところを巡回中の巡査に発見されたのである。作品ではこう書かれている。「その年齢になるまで彼女は男というものを知らずにいる。暗黒な人生に対しても彼女の心には少女らしい恐怖しかない。この可憐な娘は自分を陥没(おとしい)れようとするケダモノをすら疑わなかった」。帰宅後、家族からいろいろ尋ねられた際にお仙が「なんでも、その男の人が私の処を聞きましたから、私は知らん顔をしていた。しまいには、あんまり煩(うるさ)いから長岡だってそう言ってやりました」と話すのを聞いて周囲が笑って反応できるのも、彼女が無事戻ってこられたゆえである。
 最後、正太の細君が雨戸を開けかけ、「叔父さん、一枚開けましょう。もう夜が明けるかも知れません」と語る。藤村の最後の長編小説が『夜明け前』であることは改めて断るまでもない。