永井荷風『深川の唄』 2021年4月
小田島 本有
「深川の唄」は「四ツ谷見付から築地両国行の電車に乗った」の一文で始まる。語り手である「自分」はどこへ行くという当てもない。
この短編は二つの章から構成されている。
前半では「自分」の眼に映る車中のさまざまな人々が描かれる。乗り換えに気づき慌てて女房が降りようとすると乗車する客たちに押され、死に物狂いで叫ぶ乳飲み子、乗り逃げをした客を追いかけていく車掌たち、あるいは乗り込むや否やそこでかつての同級生と偶然会い、会話を交わす人目を惹く美人など、「自分」は次々と語っていく。
ところが突然、電車が止まる。前後の電車も同様だ。「また喰(くら)ったんだ。停電にちげえねえ」と客の一人が言っているところから、停電による停車はしばしばあったことを伺わせる。
たまたま車掌が要求もせぬのに深川行きの乗り換え切符を渡してくれたため、もともと行き先を決めていなかった「自分」は電車を降りる。ここからが作品の後半となる。
「自分」はひと頃日本を離れていた時期がある。それ以前は、「自分」にとって深川は「あらゆる自分の趣味、恍惚、悲しみ、悦びの感激を満足させてくれた処」であった。だが、その深川にも確実に時代の変化は現れていた。突然現れた長い橋に「自分」は驚かされるが、これが明治36年にできた相生橋である。跡形もなく消え失せた20歳以前の記憶を呼び起こそうと、きょろきょろしながら歩くと深川座の幟を見つけ、「自分」は懐旧の情に浸ることができた。その後坊主頭の老人が木魚を叩いて阿呆陀羅経を唱え、その横に盲目の男が三味線を抱えている光景に出くわす。もともとそれなりの教育は受けながら、「江戸伝来の、九州の足軽風情が経営した俗悪蕪雑な『明治』と一致する事ができず、家産を失うと共に盲目になった」と。ここで「九州の足軽風情」すなわち薩長出身者による明治政府への反発を見ることは容易である。
老人が歌っていたのは歌沢節である。「自分」はなつかしさばかりでなく、非常な尊敬の念を覚えて男を眺めていた。気がつく盲人の顔を夕日が照らしていた。後ろを振り向くと夕日は「生血の滴る如く」燃えており、「自分」は「一種悲壮な感」に打たれた。いつまでもこのまま夕日を浴びながら、歌沢の端唄を聴いていたいと思いながらも、「自分」は帰らなければならない。「ああ、河を隔て、掘割を越え、坂を上って遠く行く、大久保の森のこかげ、自分の書斎の机には、ワグナーの画像の下に、ニイチェの詩ザラツストラの一巻が開かれたままに自分を待っている……」で作品は終わるが、いっとき深川を散策して懐旧の思いに浸った「自分」は紛れもない近代人だったのである。