(196)『剃刀』

志賀直哉『剃刀』  2021年8月

小田島 本有

 商売道具が一瞬のうちに凶器と化してしまう。『剃刀』はそういう作品である。
 麻布六本木の「辰床」の主人芳三郎が風邪で寝込むことがなかったら、この悲劇は起こらなかったのかもしれない。だが、この事件が起きるにはさまざまな伏線があった。
 まずは一か月前にもともと同輩だった源公と治太公を芳三郎は追い出している。きっかけは先代の親方が芳三郎の腕前に惚れ込み、一人娘であるお梅と結婚させたことにある。お梅に失恋した源公はそれ以後素行が悪くなり、治太公をも巻き込むようになった。二人の解雇はやむを得ないと言える。そのため、残ったのは20歳でやる気のない兼次郎と、12、3歳の錦公のみ。
 芳三郎の腕を見込んで刃を研いでほしいという女が現れる。寝ていた彼は無理を押して作業をしようとする。兼次郎にさせたらとのお梅の進言にも彼は耳を貸そうとしない。日頃でも気分の悪いときはうまく研げないと本人が言っていたぐらいだから、その作業は推して知るべし。事実、先方からはあまり切れないので明日までにもう一度お願いしたいと言われる。お梅は同じ町内の別の店に頼むことも提案するが、それも芳三郎は無視する。だが、その姿は危なっかしく見える。
 気がつくと、兼次郎が店内にいない。錦公にお梅が尋ねると、「時子を張りに行きました」とのこと。時子とは近くで軍隊用品雑貨の看板を出した家の「妙な女」であり、そこが兵隊や書生などの溜まり場になっている。近隣で軍隊が駐屯するようになったことでできた店だが、男たちの目的はそればかりではなさそうだ。
 そこへ若者が店内に入って来て、顔を剃ってくれという。この男はこれから女郎屋へ行こうとしていることが、彼の呟きから伺える。このとき芳三郎は「思い切った毒舌でもあびせかけてやりた」いという欲望に駆られる。芳三郎がいまの地位を獲得できたのも、見習い期間に自己を抑制しひたすら修業に励んだがゆえであった。その彼はいま手も震え、水洟が垂れてきそうな状態である。このとき、彼には使いつけの切れる剃刀があった。だが、彼はそれを変えようとはしない。そこに彼の鬱屈した怒りが込められていたのだろうか。
 剃りながらもなかなかうまく行かず、喉のやわらかい部分を「皮ごと削ぎ取りたい」ような気がしたとき、彼はしくじる。そこに血が流れ出したとき、彼に「一種の荒々しい感情」が沸き起こり、彼は剃刀を逆手に持ち替えいきなり若者の喉をついた。若者は即死し、芳三郎は失神して倒れるように椅子に腰を落とす。最後は「ただ独り鏡だけが冷やかにこの光景を眺めていた」の一文で終わるが、これは横光利一の『蠅』の結末を想起させる。御者が睡魔に襲われたことで乗客を乗せた馬車は土手から転落した。その一部始終を眺めていたのが一匹の蠅だったのである。