(195)『雪の日』

近松秋江『雪の日』  2021年7月

小田島 本有

 近松秋江といえば別れた妻への愛執を綴った「別れたる妻に送る手紙」「疑惑」といった「別れた妻もの」で知られるが、「雪の日」はその最初に位置づけられる作品である。
 外は銀世界。家の中で「私」は妻のお雪と差し向かいになり、彼女の過去についてしきりに尋ねたがる。この二人は夫婦生活が四年目を迎えている。
 「私は、まだこの口を糊するがために貴重なる自己を売り物にせねばならぬまでになり果てた」と主人公は自らを嘲笑するが、それは仕事ゆえなのか、はたまた性格ゆえなのか、いずれとも判別しがたい。
 お雪の初恋は樋口一葉の「十三夜」におけるお関と録之助のような淡いものだったという。二十歳の頃は見知らぬ男が「あなたは私を知らないでしょうけれども、私は能くあなたを知っています。どうぞ私の言うことを聞いてくれないでしょうか」と言い寄ってきたが、「御用があるなら、私にはお母さんがあるから、お母さんにそう言って下さい」とつれない態度をとったという。やがて兄が嫁を迎えたのをきっかけに彼女を袖にするようになり、失望した彼女はただ家を出たいの一念で結婚したが、それが失敗だったという。彼女は苦労の連続で結局先夫とは別れてしまった。
 お雪の男性遍歴を執拗に聞きたがる「私」の傾向は今に始まったことではない。「私」はかつて、お雪の先夫との仲をしきりに尋ねて、あたかも不義が行われているかのような「嫉妬の焰」にさんざん苦しめられ、それがきっかけで「私」が泣いたり喧嘩になったりもした。今はそれも収まったが、お雪は「私、あの時分のように、もう一遍あなたの泣くのを見たい」などと言っている。嫉妬されないのも物足りない。そこに人間の不可思議がある。
 「私」がたまには先夫に会ってみたいという好奇心が湧かないかと尋ねたところ、彼女は昨年の春のことを思い出し、語り始めた。たまたま姉と二人買い物に出かけていたところ、姉が妹の先夫を見つけた。先夫は嫂と二人連れだった。そのとき彼女は、もはや関係のない相手とはいうものの腹立たしいやら、憎らしい気がしたという。姉に確認したところ、先方もこちらに気づいていたようだとのことで、しばらくして彼女の方を二人が見返っていたとのこと。この一件でお雪は気分が悪くなり、姉の家に立ち寄りしばらく休んでいたそうだ。
 お雪は「罪深いような、私にすまないというような顔」をして語った。「私」は「いくらか身体が固く縛られたような感じ」がしたものの、以前のように激しい動揺をすることはない。それはなぜか。「私」は考えるが、それもほんの一瞬のことである。この直後、「今日は一つ鰻でも食おうか」と切り出す「私」と「ええ食べましょう」と答えるお雪。ほんわかとした幸福感がここでは漂っている。