(230)『驟雨』

吉行淳之介『驟雨』  2024年6月

            小田島 本有

  山村英夫は大学を出てサラリーマン生活3年目。結婚する気は毛頭なく、秘かに山村家の断絶を願う人間である。その彼が娼婦の町で出会った女に惹かれていく。
 英夫は「気に入る」ことと「愛する」ことを明確に区別していた。後者はこの世の中に分身を持つことを意味しており、そのような煩わしさを避けるべく彼は娼婦のもとを訪れたのである。
 彼はこの女を気に入った。彼女は「慎しみ深い趣」がありながら行為になると「みだら」であった。
 仕事の関係で数週間東京を離れることになったとき、女は英夫に旅行先から手紙をくれるよう催促し、娼家の住所と姓名を教えてくれる。そしてあるとき、彼女は「今度お会いするまで、わたし、操を守っておくわね」とささやく。英夫の心に「道子」という固有名詞がしっかり刻印された瞬間だった。そもそも娼婦は多くの男たちに体を売る商売である。それだけに英夫は「操を守る」という彼女の言葉に囚われ始めるのである。
 同僚に古田五郎がいた。それまで彼と会話できるのは麻雀と娼婦についてだけだったが、古田は社の重役の娘との縁談が起こったことがきっかけで素行を慎むようになった。
その古田の結婚式に出席する前夜、出張先から戻ってきた英夫は道子のもとを訪れる。そのとき彼女は彼と一緒に風呂に入り、彼の髪の毛を丁寧に洗ってくれるがそのとき彼女が示してくれた好意は「上昇して恋慕の情になっているかのような風情」が窺われた。だが、その一方で彼が壁にかけられたカレンダーに次に外で会う約束を書き入れようとすると「あら、いけないわ。ほかのお客さんがヘンに思うから」と彼女に制せられる。これが現実なのだ。
道子の部屋の窓から町のたたずまいを見下ろしているとき、俄雨が降った。そのとき交錯する嬌声を聞きながら、英夫ははじめて「情緒」を感じる。また、一本の贋アカシヤから夥しい葉が一斉に落葉した光景が語られる。語り手はこれを「まるで緑いろの驟雨」と形容している。
作品を子細に読んでいると、表情が実に暗くなったかと思うと急に瞳が輝くなど、道子の表情は変化に富んでいる。そこに英夫は搦め取られているとも言えそうだ。
古田の披露宴が終わったあと、英夫は再び道子の娼家を訪れるが、別の客がいるため40分ほど散歩してきてほしいと言われた。待たされる立場になった彼には嫉妬の情がうごめいている。
時間つぶしのため訪れた簡易食堂でコップ酒と茹でた蟹を彼は注文する。脚の肉をつつく力に手応えがないことに気づいた時、彼が目にしたのは二つに折れかかった杉箸であった。嫉妬の情に駆られること自体が愛し始めた証拠なのである。