泉鏡花 『高野聖』 2008年11月
信州から飛騨へ向かう旅の途中で「私」は一人の上人と道連れになる。高野山に籍をおく40代半ばの説教師で名を宗朝という。香取屋という旅籠屋で彼が「私」に語ってくれたのは、若かりし頃、飛騨の山越えをしたときに迷い込んだ孤屋(ひとりや)、そこで暮らす妖艶な女との出会いであった。
宗朝は不思議な体験をする。この孤屋に泊めてもらうことになり、女からの勧めで近くの滝で行水していると、やがて女が背後から近づいて来ていた。驚いたことに女は衣服を脱いでいたのである。そればかりではない。山道の途中で出会う蟇(ひき)や大蝙蝠に向かって、「お客様がいるんだよ」と話しかける。更には、動こうともしない馬の前で裸になり、その下腹を潜り抜けた。すると馬はすたすたと歩き出したのである。一緒に白痴の男が暮らしているというのも宗朝には解せなかった。
この女には誘惑性(エロチシズム)と母性、相反する二つの側面があった。前者の虜となったのは宗朝ばかりではない。後で親仁(おやじ)が彼に語ったところによると、男たちは次から次へと彼女によって動物に変えられてしまったという。旅の途中で出会った富山の薬売りもこの人里離れた村で馬となってしまったのだ。親仁は宗朝に言う。「妄念は起こさずに早うここを退(の)かっしゃい、助けられたが不思議なくらい、嬢様別してのお情けじゃわ」
もう一方の母性は、白痴の男に対して向けられる。彼女の父親は医者であったが、そこへ治療にやってきたのが当時子供であったこの男である。脚に大きな腫れ物があり、その手術を試みるも失敗し、今のようになってしまった。彼がこの娘になついていたため、彼だけしばらく逗留することになったが、村が大洪水に襲われ、この村で生き残ったのはこの娘と白痴の小児、それに親仁の三人だけとなった。それが今から13年前のことである。彼女とこの白痴が夫婦となったのは、ある面で無理もないことであった。
作品内で変身を免れたのは、宗朝、白痴の男、それに親仁の三人である。親仁は女を昔からの習慣で「嬢様」と呼んでいる。彼は白痴の男と同様、性的欲望からは一線を画されていた。
しかるに、他の男たちが動物に変身せざるをえなかったのは、彼らが彼女をまさに性的欲望の対象とし、そのように振る舞ったためではないか。彼女を欲望の眼で眺めたという点で、若き日の宗朝も例外ではない。だが、彼はもともと「臆病者」であり、その方面での具体的な行動力を欠いていた。しかも彼は修行中の身であった。また、富山の薬売りに反感を抱きながらも、彼が二股で誤った方向へ行ってしまったことに気づき、わざと見棄てることに気が咎め、それを追って旧道に入っていった。そこに彼の人柄も伺える。
女の「お情け」はその辺を見越してのことだったのかもしれない。