辻 邦 生 『 安 土 往 還 記 』2012年4月
『安土往還記』の扉には「森有正氏に」という献辞がある。森は「定義」にもとづく「経験」論を展開した哲学者であり、辻の恩師でもあった。『安土往還記』は辻が語り手「私」の口を借りて大殿(シニョーレ)(織田信長)という一個人を「定義」した作品である。
この作品が書かれたのは昭和43年のこと。当時残虐非道のイメージが定着していた信長である。新たな信長像の創出ということにこの作品の主眼は置かれていた。その実現のため、作者は語り手の造型に殊更工夫を凝らす必要があった。
その一つはこの語り手「私」がジェノヴァ出身の異国人として設定されていたことに表れる。それだけではない。「私」は地元で妻とその情夫を殺害したことで本国を離れ、航海を重ねた末に日本に辿り着いたという経験の持ち主であった。「私」が殺人を犯したのは妻への愛情からであり、同時にそれに支えられた人間としての誇りを守るためであった。法は自分を罪人として糾弾するだろう。だが、「私」は自らの行為をいささかも悔いていない。「私」が法に屈するとすれば、それは自分の誇りを捨てることになる。少なくとも「私」にとって海外への渡航は罪人としての宿命と自らの尊厳との鍔ぜり合いから生まれた行動であり、孤独な闘いでもあった。
このような生き方を選択することじたいが慣習としての法に捉われないことを意味していた。すなわち、この「私」は異国人としての立場のみならず、通常の道徳観念を逸脱した視点から大殿を観察するのである。その「私」の眼に映る大殿は、自らの意志実現のためには理を重んじ、いっさいの感傷的なものは介入させないという徹底した精神をもった統治者であった。そこには残虐非道という世評に屈しようとしない、いわば孤独者の姿があったのである。その点で「私」は大殿のなかに自らの分身を見出したと言ってよい。「私」が大殿への協力を惜しまなかったのはそのためであるし、大殿が「私」たち異国人への共感をしばしば口にしていたのもゆえなしとしない。
それだけに本能寺の変による大殿の死は「私」に大きな衝撃を与えた。大殿の死は大殿の「完璧さの極限に達しようとする意志」の挫折であり、同時に「私」の意志の崩壊でもあったのである。
いま、「私」は日本を遠く離れたゴア要塞島で友人にあてて手紙を書いている。日本を離れて十数年が経過した。いま「私」は無為の状態のなかにいる。そのなかにあって、「私」は手紙の中で大殿のかつての姿を語っていく。大殿について語ることは、「私」が失われた日々を取り戻すことであり、それは同時に挫折を余儀なくされた大殿の意志を「私」が受け継ぐことに他ならない。語る行為そのもののなかに自らを変容させていく力があるのだ。