安 部 公 房『方舟さくら丸』2012年12月
『方舟さくら丸』は「デブ」ゆえに《豚》もしくは《もぐら》と綽名されている「ぼく」が語り手となった作品である。「ぼく」自身はどちらかというと後者の呼ばれ方がふさわしいと考えているが、それは採石場跡に核シェルターを作り、3年前からそこで洞穴暮らしをしているという事実に負うところが大きい。
「ぼく」はそこで一緒に暮らす仲間を求めていたものの、半年間これといった仲間に出会う機会をもてないでいた。外出の際には必ず、採石場跡の出入り口の扉の合鍵と、「乗船券 生きのびるための切符」と書かれた名刺大のカードを携行していたにもかかわらずである。
昆虫屋(菰野さん)は「ぼく」が唯一切符を渡した人物である。しかし、切符を無理やり奪ったサクラ、それに連れの女はカードの裏に描かれてあった地図をもとに洞窟を見つけ、「ぼく」や昆虫屋より先に入り込んでいた(ただし、女は、駅前のデパート地下での家伝宝物展示即売会で見かけたときに、「ぼく」が乗組員1号と密かに目していた相手であった)。
このようにして共同生活が始まる。核シェルターはいわば排他的自閉空間である。しかし、作品の後半部になるとそこには招からざる人物たちが次々と入り込んでくる。「船長」と呼ばれることを認められた「ぼく」ではあったが、その「ぼく」も御しがたい事態が展開されるのである。
その象徴的な事件が、「ぼく」が片足を滑らせ、便器にはさまれた一件だった。幼い頃、「猪突(いのつく)」と呼ばれる実父に仕置きの罰を受けたのが便器だったにもかかわらず、「ぼく」のお気に入りは巨大な便器に腰を下ろして、チョコレートをかじりながら空中写真の中を旅することだった。その点では、これは皮肉な結果であったと言えよう。
「ぼく」はこのシェルターにさまざまな仕掛けを施していた。抜けない足を解放させるため、「ぼく」は仕掛けを使って爆発を試みる。周囲には核爆発と思わせながら、真相を伝えたのは女とサクラだけだった。「ぼく」と女は外への脱出を試みるが、サクラはこのままとどまる決意をする。
以前、サクラは「おれが船長になったら、この船、〔さくら丸〕だぜ。笑っちゃうよ。羅針盤もなけりゃ、海図もなしだ。走る気もないのに、走ったふりをしてみせるだけの船になっちゃうぜ。」と語っていた。船にとどまるサクラは、生き残ったわけでもないのに生き残ったふりをすることになる。なぜなら、他のメンバーは核爆発が起こったと信じているからである。
「船長」としてのサクラが、そこでやろうとしていることは何なのか。作品は具体的に語ってくれない。