(110)『蹴りたい背中』

綿矢りさ『蹴りたい背中』 2014年6月

小田島 本有    

 綿矢りさが『蹴りたい背中』で芥川賞を受賞したのは2003年(平成15年)のことである。当時彼女は19歳。史上最年少の受賞者が誕生して大きな話題となったのは記憶に新しい。
 この作品は長谷川初美という女子高校生の語りで構成されている。彼女は高校に入学して二か月ほどだが、既に教室では余り者となっており、好きな者同士で実験グループを作るときそれが如実に表れた。そして、その「私」と同じ立場にあったのが「にな川」である。彼は実験に積極的に参加しようともせず、女性ファッション誌を開いている。たまたまその開いているページに写っていたモデルに「私」は見覚えがあった。「私、駅前の無印良品で、この人に会ったことがある。」という一言が、「私」とにな川を近づけるきっかけとなった。にな川はこのモデル、オリチャンの熱烈なファンだったのである。彼はオリチャンに会ったときの情報を「私」から執拗に得ようとする。
 この作品のタイトルにもなっているが、「私」がにな川の背中を蹴りたいという衝動に駆られる場面は二度ある。
 一つは、にな川が「私」に背を向けて、オリチャンのラジオ番組をイヤホンで夢中になって聴いているとき。もう一つは、作品の最後、オリチャンのステージ終了後裏口へ駆け込み、他の人々を乱暴にかき分けてオリチャンに近づいたものの、スタッフに制されたときの自分を「ただの変質者」だったと後悔し、「あの時に、おれ、あの人を今までで一番遠くに感じた」と彼が語ったときである。
 自分のことは意外と分からないものだ。「私」自身は、自分が彼に恋をしているという自覚はない。友人の絹代にそのことを指摘されても本人が納得していない節がうかがえる。
 だが、オリチャンのステージに行ったとき、「私」はオリチャンの姿を食い入るように見つめるにな川の姿に絶えず視線を送っており、絹代には「にな川ばっかり見てないで、ちょっとはステージも見たら?」と指摘されている。また、絹代からは「にな川がオリチャンのところに走っていった時のハツ、ものすごく哀しそうだったよ」とも言われているのである。
 文庫本の解説の中で、斎藤美奈子は、背中を蹴る行為を「一種の性的な衝動」と述べている。「私」はにな川に「オリチャン以外のことについて話そう」と語りかけていた。オリチャンのステージ終了後のハプニングでも、「私」は放心状態にいるにな川を見つめながら、「もっと叱られればいい、もっとみじめになればいい」との思いを禁じ得なかった。この屈折した感情は、究極のところ「私」のほうを見てほしいとの心が根底にあったのではないか。おそらく、本人にはそのような明確な自覚はない。だからこそ、この作品は読者に生き生きとした印象をもたらすのである。