国木田独歩『武蔵野』 2017年8月
「武蔵野」は『国民之友』に「今の武蔵野」という原題で明治31年1月、2月に連載された。「武蔵野」の構想が立てられたのは明治29年秋のことと想像される。この年の4月に妻信子が失踪し、独歩は離婚を余儀なくされる。その傷心の彼が弟収二と武蔵野の一隅渋谷に移り住んだのが同年9月のことである。
「武蔵野」は独歩にとって初の言文一致体の作品であった。この作品では二葉亭四迷訳のツルゲーネフ「あひびき」が引用されているが、独歩に言文一致体を試みさせたのがまさにこの「あひびき」との出会いだったのである。
独歩は「あひびき」を通じて落葉林の美を知った。武蔵野は木の葉が落ち尽くし裸になると空気が澄みわたる。彼はこのとき聞こえた栗の落ちる音について語っているが、静かなだけにその音は一層はっきりと身に染みるのだ。
武蔵野は独歩にとって信子と共に散策した思い出の土地である。だが「武蔵野」において、信子の影はすっかり取り払われている。彼にとってそのような表現行為こそ再生のために必要な手段だったのだろう。
彼はしばしば北海道の自然と武蔵野の自然との違いについて語っている。「武蔵野に散歩する人は、道に迷ふことを苦にしてはならない」という言葉もその表れだろう。武蔵野ではいかなる場所に出ても人々を失望させたりしない、という確信めいたものが彼にはある。そして、そこには自然と人とのいい意味での接点もあるのだ。
文中に、掛茶屋の婆さんとの会話場面がある。夏にここを訪れたとき、婆さんは「今時分、何しに来たゞア」と彼に問いかける。「散歩に来たのよ。たゞ遊びに来たのだ」と答えると、婆さんは「桜は春咲くこと知(しら)ねえだね」と言って、東京人の呑気さを笑う。いくら夏の良さを彼が語っても婆さんは取り合わない。そのずれが何とも言えずユーモラスで微笑ましい。
独歩が見出したのは大自然の美ではなく、町外れの自然美であった。「即ちかやうな町外れの光景は何となく人をして社会といふものゝ縮図でも見るやうな思(おもひ)をなさしむるからであらう」と彼は語っている。ここで「大都会の生活の名残」と「田舎の生活の余波」とが落ち合っているところに彼は慰安を見出した。この作品の結末で、12時のどんが微かに鳴り、遠く汽笛の響きが聞こえてくる場面が描かれている。ここでは独歩の求めた理想の姿が象徴的に表れている。
柄谷行人は独歩が武蔵野という新たな風景を発見できたのは、彼が自分の内面に目を向ける「内的人間」となったからだ、と論じた。そのような変化をもたらす大きな要因となったのが、信子との破局という大きな傷であったことは改めて断るまでもない。