田村俊子 『女作者』 2018年11月
この作品では主人公に固有名詞が与えられていない。終始一貫して「女作者」と呼ばれている。「女流作家」や「女性作家」という言い方のほうが一般的であることを思うと、呼称として「女作者」を選択し、それを作品のタイトルにまでしたところに田村俊子の意図的なものを見出すことは可能だろう。
彼女はいつも白粉をつけている。それが彼女の執筆に際してのまじないのようなものであった。白粉を溶くときに想が思いつくという経験から彼女は白粉を手放すことができなくなっている。ところが、最近では白粉を塗っていても創作の力は湧いてこない。それが彼女を苛つかせる原因となっていた。
その矛先は亭主に向かう。彼女は亭主の前で泣き出したりもするが、亭主から返ってきた言葉は「おれは知らないよ」だった。彼は「もう書く事がないなんて君は到底駄目だよ」と言い放つ。彼もどうやらもともとは物書きだったようで、その彼からすると「そこいら中に書く事は転がっていらあ」なのである。その言葉を聞いて彼女は泣くどころか、吹き出してしまう。それでも彼女の気持ちは収まらない。亭主の額をごりごり小突いたり、唇のなかに手を入れて引き裂くようにその唇を引っ張ったり、頬をつねったりする。彼女には亭主の反応のなさが気に食わないのだ。ただ、この状態では彼女の行動がエスカレートするばかりで何の解決にもならないのは明らかである。
そこへ彼女の女友達がやってきた。近いうちに別居結婚をするという。その友達は「自分に生きる」とさかんに言う。同居しないのもそのためだそうだ。その話を聞いたからといって、「女作者」が影響されて一人の生活に戻れるわけでもない。そもそも亭主は彼女の「初恋の人」であり、今でも彼に対する愛着は確実に存在するのであった。大切なのはその亭主と共に暮らす中で、喜びばかりでなく切なさ、悲しみ、怒りなど、さまざまな感情を体験することである。それはまさに一人の男と丸ごと向き合うことであり、そこで相手を肌で理解することに他ならない。そこには一人の生活では決して味わえないものがあるはずだ。
「女作者」はいま岐路に立っている。白粉に頼っている段階はもう終わった。彼女は今までの創作のあり方を根本的に見直すべきなのだ。ある意味において、彼女はようやく「女作者」として生き始めたのである。その証としてこの呼称やタイトルがあるのではないか。
そして、このように書けない「女作者」を造型し、それを小説化していった田村俊子がいることを見逃すべきではない。田村はまさに「書けない」状態を対象化することを題材として選び、創作を可能にしたのである。だが、自らの枯渇状態を対象化することじたい永続できるものでないこともまた確かなのだ。