夢野久作『ドグラ・マグラ』 2019年9月
日本探偵小説三大奇書の一つとされる『ドグラ・マグラ』は夢野久作が10年余りの歳月をかけて書き上げた長編小説である。しかも完成の翌年である1936年に著者は47年の生涯を終えており、その点では畢生の大作と呼ぶべきだろう。しかも、そこには当時必ずしも十分な研究がなされているとは言えない精神病の知見などが盛り込まれているばかりか、冒頭の主人公「私」が深夜に目覚め、自分が何者なのか、自分はいまどこにいるのかも分からず途方に暮れているなか、隣り部屋から「私」に向かって叫び続ける若い女の訴えに脅える場面は非常にリアルであり、決して古臭さを読者に感じさせない。
女は「私」を「お兄様」と呼びかけ、自分は「お兄様」の婚約者モヨ子だと名乗る。式を挙げる前日に自分は「お兄様」に殺害された。だが、幸いなことに甦ったと、声の主は言う。この言葉にどう応じればいいのか「私」は戸惑いを隠せない。
そこに現れたのが九州帝国大学医学部長の若林教授。若林は「私」の記憶が戻るのを待っているという。この大学にはかつて正木教授がいて「狂人の解放治療」を計画していたが、1カ月前に遺書を遺して自殺したとのこと。この二人の博士は「心理遺伝」というものに関心を寄せ、その研究対象として呉一族に注目していたという。若林の説明によると、呉一郎という若者がモヨ子という美貌の少女と結婚することになっていたものの、挙式の前日に彼女を殺害したという。だがその彼女は生き返り、隣りの病室にいるとのことだった。ただし、「私」が呉一郎本人なのかどうか、若林は明言しない。
呉一郎はある絵巻物を見たことがきっかけで犯行に及んだという。これはかつて呉青秀という画家が中国にいたが、彼は玄宗皇帝を戒めるべく自分の妻を殺害し、その死体がしだいに腐乱して行くさまを忠実に描いたのであった。これが日本の呉家に伝わり、いわばこの家系はこの絵巻物に祟られていたのである。呉一郎が犯行の前日この絵巻物を見ていたという証言もある。
作品中では「脳髄論」なる学説についての記述があったり、正木・若林両博士が関心を抱いた研究対象「心理遺伝」についての言及もある。さらに事件を引き起こす先祖の祟りの問題も描かれていて、これらの題材は現代にも十分通用し得るものと言えよう。それに精神病や精神分析といった当時にあっては未解明の部分が多かった領域を、著者は百科全書の知識をもとに敷衍して長大な物語を構想した。そこに彼最大のオリジナリティがあった。
多くの謎が散りばめられたこの作品は最後まで解決が見出されない。「私」が果たして呉一郎であったのかどうかも……。ここにこの作品の奇書たる所以があると言えるのではないか。