(176)『太陽のない街』

徳永直『太陽のない街』  2019年12月

小田島 本有

 東京小石川共同印刷の大争議(1926年)で馘首された徳永直がそのときの体験を題材にして描いた作品が『太陽のない街』である。作品の中で共同印刷は「大同印刷」と改められた。
 作品の冒頭で摂政宮殿下が行啓の際に興味を示されたのが、向こうの山とこちらの山との間にある谷である。案内をしていた老校長は慌てる。なぜならその谷底こそ「太陽のない街」すなわち大同印刷とその労働者家族が住む貧民窟が存在する土地だったからである。
 争議はもう2か月以上続いている。会社は2700余名の解雇を断行し、その後大々的な募集広告を出すことで争議団の切り崩しを図るなど、そのやり方は巧妙である。その中にあって争議団の熱心なメンバーはいきおい先鋭化を余儀なくされていった。
 その一つは大川社長の邸宅が放火されたことだった。犯人は宮池。彼は事件後状況を判断し、自首することを春木高枝、加代の姉妹に伝える。宮池と加代は恋人同士であり、一方の高枝は争議団婦人部会の重要メンバーであった。高枝と病父との間はもはや険悪となっており、父親は彼女を狂人呼ばわりしている。長女が運動にのめり込むばかりか、妹の加代までが引きずり込まれることに我慢ならなかったのである。
 もう一つは大川社長が「ペット」として可愛がっていた孫娘が突然中毒で死亡したことだった。犯行に及んだのは高枝であったらしいことが作品の結末で暗示されている。
 争議団の中も決して一枚岩ではなかった。婦人部会で議長の口から、「この席上にある者の一人で、女子として最も恥ずべき貞操を餌として、金銭を受け取っているという」「淫売女」がいると、きみちゃんが槍玉に挙げられる場面がある。きみちゃんは家が貧しく、重い病気を抱えた家族もいた。高枝はそのことを顧慮しようともせず、観念的に貞操論を振りかざすやり方に激しい反発を見せていた。
 あるいは、争議団の中には共産党員もおり、運動が長期化するにつれ先鋭化する傾向についていけなくなった人々もいたことは致し方のないことであった。
 警察に長期検束された加代は脚気を患った。宮池との間に子供を宿していた彼女は妊娠6か月を迎え、出産が望めないと判断し胎児を殺した。そして死児を分娩できず結局は若い命を落としてしまう。後に高枝が大川社長の孫娘を毒殺する暴挙に出たのは、妹の死が深く影響していたのだろうと推測される。
 争議は最終的には失敗に終わる。それでも会議の席で退場を命じられた青年たちが団旗を奪い取って守ろうとする姿を描いて作品は幕を閉じる。運動はまだ始まったばかりであり、今後も続くことを象徴する場面と言えよう。
 共同印刷の大争議の前年、治安維持法が成立した。時代はますます混迷の度を深めていくことになる。