(181)『葬式の名人』

川端康成 『葬式の名人』  2020年5月

小田島 本有

 「私には少年の頃から自分の家も家庭もない」。この書き出しは実に淡々としているが、それだけに殊更印象深い。
 22歳の夏休み、たまたま30日足らずの間に「私」は三度の葬式に出ることになった。参列するよう、いつも声をかけてきたのは摂津に住む従兄である。その従兄が冗談まじりに「あんた、葬式の名人さかい」と言った。それがこの作品のタイトルにもなっている。このタイトルじたい、ある意味において自嘲的なニュアンスが感じられる。「私」は自ら望んで「葬式の名人」になったわけではない。数多くの葬式に参列し、さまざまな作法に通じている、ということが「私」の過去を浮き彫りにする。
 「私」は自身の生い立ちを語る。両親の葬式は記憶にない。祖母は小学校入学の年、姉は11、2歳の年、祖父は16歳の年にそれぞれ亡くなった。仏壇を身近なものとして感じるようになったのは祖母が亡くなってからだという。祖父は往生際痰が気管につまり苦しそうだった。それに耐えきれず1時間足らず別室に逃げたことを後に一人の従姉が責めたが、「私」は黙っていた。祖父の葬式は「私」が喪主となったが、御骨拾いの際に途中激しい鼻血に襲われ、30分ほどその場を離れることになる。他の人々はその間「私」を探した。このときも「私」は鼻血のことを誰にも喋っていない。これらのことから、自ら弁解がましいことをしようとしない「私」の性格が伺える。
 早くに肉親に先立たれ、周囲は「私」を「哀れなもの」に仕立てようとする。「私の心の半ばは人々の心の恵みを素直に受け、半ばは傲然と反撥した」との一文は、『伊豆の踊子』で主人公の一高生がそれまで「孤児根性」に苦しんでいた姿を彷彿させる。『伊豆の踊子』は、踊子をはじめとする旅芸人の一座と出会い、彼らと行動を共にしたことで「私」の精神が浄化されていく、という作品だった。
 三度目の葬式のあと、近くに住む親戚の家で「私」は一泊した。そこで家人から、もしかするともう一度葬式があるかもしれないことをほのめかされる。従姉からは「葬式屋はん、お帰りやす」と言われ、「阿呆言うてんと、塩もろて来とくなはれ」と「私」が切り返す場面が描かれている。
 生老病死は人の宿命と言ってよい。そして我々はどれほど多くの人々の葬式に参列することだろう。川端はそれらに立ち会う自身を描きつつ、我が身を振り返った。
 ちなみに川端には、病み衰えていく祖父の病状を写実的に描いた「十六歳の日記」という作品がある。この原稿(日記)が100枚になれば祖父の命は助かる、という思いで書かれたものだった。これが彼のいわば処女作であったことはよく知られている。