三浦綾子『ちいろば先生物語』 2025年9月
みずからを「ちいろば」に例え、一生を精力的な伝道活動に捧げた榎本保郎牧師の生涯を綴った伝記小説。保郎が三浦綾子に講演を依頼したことがきっかけで二人の交流は始まった。生前保郎は綾子に、自分が死んだら記念に伝道集会を開いてほしいと頼んでいた。このときその願いをまともに聞こうとしなかった綾子にとって、『ちいろば先生物語』の執筆は遅ればせながらの返事となったのである。
中学時代、上級生が下級生に対して行う「蛸釣り」に反発しその刷新を図ろうとするところなどに、思い立ったらすぐ行動を起こす保郎らしさが端的に現れている。戦争に徴兵され大陸で目の当たりにした苛酷な現実は保郎を虚無的にさせた。戦時中にあっても自らの信念を変えようとしなかったクリスチャン奥村光林などとの出会いもあり、彼はやがてキリスト教に目覚め信仰の道を進もうとする。
まだ大学に入学していない時点で京都に世光教会のもととなる組織を立ち上げ、教会が10年以上経過したときに周囲がその教会を「保郎の教会」と認識していることに違和感を覚え、そこからの脱出を考えたばかりか最終的には愛媛の今治教会からの招聘に応じるなど、彼はそれまで築き上げたものに執着しない。あるいは野村和子にプロポーズした際、信仰告白として大陸応召時代の自らの罪を曝け出すなど、その行動は読者を驚かせる。だが、そこには彼の一途なまでの愚直さがある。彼はやがて祈りの集会であるアシュラム運動に専念するため今治教会を辞めることを申し出た。このときも世光教会の時と同様、多くの教会員たちを動揺させたのは言うまでもない。
彼には多くの人々を魅了する不思議な力があったようである。彼と接することで大きく人生が変わった人たちの例も枚挙にいとまがない。
保郎は痔を患ったときの輸血がもとで肝硬変に長い間悩まされていた。その中でも彼に対する講演依頼は絶えることがなかった。あるとき、階段を四つん這いで上っていく夫の姿を目の当たりにした和子は米国行きを留まるよう懇願した。だが、彼には「聴従」へのこだわりがあった。つまり「主がお入り用なのです」という聖言(みことば)に従おうとする決意が彼には強くあったのである。
実は綾子も彼の米国行きを断固反対した一人だった。保郎は米国で客死する。訃報に接したとき綾子は腹立たしい思いが強かったと言う。だが、この小説を執筆するための取材を通して、彼女は今まで自分がいかに榎本保郎という人物を知らなかったかを気づかされた。彼は旅先で命を失うことは十分覚悟していた。それでもなおかつ自分にはやらねばならぬことがある。彼はそう信じていたのだった。
綾子にとってもこの作品の執筆は榎本保郎との再会であると同時に、自分を見つめ直す機会となった。執筆とはまさにそのような行為なのである。